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2007年11月15日

「アンビリバボー」豪華客船沈没事件

「アンビリバボー」は、毎週やってる番組ですが、私はビデオ録画でバラバラに観ているため、これがいつの番組やらわかりません(;^∇^ )
 
豪華客船沈没・・・と聞くと、私は「タイタニック号」を思い浮かべます。
映画「タイタニック」も観たし。
・・・水っていうのは怖いですね〜(>_<)

  
しかも、豪華客船というのは、お金持ちが乗るわけです。
高いお金を払ってるのに、沈没ってどういうこと?
本当に冗談じゃないって感じでしょうね。
 
今回の豪華客船は、「オシアノス号」。
二日間の船旅で、事故が起こったのです。
 
その事故も、「老朽化の部品が壊れて浸水した」あと、
船員が「扉を閉めなかったから浸水が広がった」とか、
「逆流を防ぐパイプを修理しないで取り外しておいたから水があふれた」とか、
「窓を開けっ放しにしていたから、傾いた船に海水が入り込んだ」などなど、全部船会社や船乗組員などのせい!(゜Д゜|||)

  
それでも豪華客船なのか・・・?
 
あまりにもずさんです。
それで高いお金を払わせるって、ほとんど詐欺。
 
おまけにこの事件のすごいところ(というか、呆然とするところ)は、
沈没がわかった際に、船員たちは「乗客に知らせない」という非道ぶり。
あげく、船員たちだけで脱出をし、乗客たちを見捨てるという行動に!!
 
なんだそれ!?
 
船長は茫然自失で雲隠れ。
 
その状況を知ったのは、雇われていた夫婦の演奏家、モス。
彼は乗客に説明し、なんとかしてみんなで脱出しようとするのです。
 
なんて偉い人なんだ・・・(TロT)
 
奥さんのトレイシーも、マジシャンの人も、みんなをはげましながら
救命ボートを下ろしたり、頑張っていて・・・。
 
まさにタイタニックの映画を観ているかのようでした。
 
 
結果として、なんと全員が無事に救助され、助かったというものすごい感動的な結末で・・・ホッとしました。
 
それにしても最後まで傾いた船に残って、先に乗客たちを脱出させ続けたモスってすごいです!
いつ沈没するかわからない船で残るということは、死ぬかもしれないということなのに。
 
なんて勇気があって、正義感があって、行動力のある人なんだろう
 
 
船の中で、乗客たちがパニックにならないですんだのは、モスやトレイシーが歌を歌ったり、マジシャンの人がマジックをしたりしたからだということで、それもまたすごいです。
 
そんな状況の中でもそういうことができることに驚くし、
自分の才能をそういう瞬間に活かせるのが素晴らしい(*´▽`*)
 
 
まさに奇跡の生還といえますが、生きようとする強い意志が奇跡を呼んだということなんでしょうね。
とても感動しました・・・。
 
その後のモスとトレイシーは、再び別の豪華客船で演奏中に、大火災発生で船沈没を経験。
そんな体験を二度もして、そのあとも演奏家を続けたというのにもびっくり。
 
「やっぱり船が好きなんだろうね」
と笑うモスは、最強といえるかもしれません・・・。
 
でも、ああいう極限状態で勇気や正義感のあるひとって、カッコイイですね〜。
そういう男性と結婚できたら幸せですね(^.^)
 

 

 

posted by 水沢桃子 at 19:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 「アンビリバボー」感想

2007年11月16日

「アンビリバボー」中国純愛物語

「アンビリバボー」はランダム的に観ているので、いつ放映されていたものかはわかりませんが・・・。
 
1940年頃の、中国のとある山のふもとの小さな村の話でした。(地名はややこしくて覚えられず)
 
6歳の少年リュウは、他の村からお嫁にやってきた16歳のザオチンという女性に恋をします。
 
リュウは、「お嫁さんに歯に触ってもらうと強い歯が出てくる」という言い伝えどおり、ザオチンに歯を触ってもらおうとしますが、そのときうっかり彼女の指をかんでしまいます。
以来、恥ずかしくてまともに顔も見られなくなったリュウ。
 
それから10年の時が過ぎ去り、ザオチンの夫が病死。
彼女は4人の子供を抱えた未亡人として、生きていくのが困難な状態に。
そんなある日、たまたま、おぼれた彼女の子供を助けたのがリュウでした。
 
そして、夫の親戚からもよそ者扱いで冷たくされ、たった一人だったザオチンを、リュウは助けてあげることにします。
ずっとザオチンが好きだったリュウはもちろん、やがてザオチンもリュウを想うように・・・。
 
しかし封鎖的な社会では、未亡人でよそ者のザオチンとリュウの恋は祝福されませんでした。
リュウもザオチンも、そしてザオチンの子供もいじめられたり陰口を叩かれます。
リュウは親から見合いをさせられ、ザオチンとは別れろと言われます。
 
どうにもならなくなった二人が最終的に下した決断とは・・・・・・。
 
 
というつくりで、「心中」のようなムードだったため、大ショックでした(>_<)
 
しかし・・・!!
 
二人が決めたことは、「死」ではありませんでした
 
なんと二人は、近くの山(深くて、誰も入ってこない)に入ることに決めたのです。
村を捨てて、二人だけ(もちろんザオチンの子供も一緒ですが)で暮らすことを決意したのでした・・・。
 
さらに驚いたのはそれだけではなく、
そのあと、リュウは危険な山道を降りて別の村へ行くときのために(病院に行くなど)6000段もの階段を作ったのです!!Σ(゜Д゜;)
 
その階段のおかげで、山の上から子供たちは学校にも通えたそうで・・・。
今でも、子供たちは山を降りて生活をしているものの、時々山を登って二人のところに来ているとか。
もちろんリュウとザオチンはずっと山の上で暮らしています・・・。
 
 
すっごいです!!
 
ものすごく感動してしまいます・・・。
 
 
6歳の頃からずっと同じ人を想い続けているリュウにも感動するし、
そのあと彼女を助けて、彼女もリュウを好きになって・・・というのも素敵だし、
どうにもならなくなったときの決断がまた素晴らしいです。
 
別れるでもなく、死ぬでもなく、
一緒に生きていく道を選んだんですね・・・(*´▽`*)
 
そこまで人を愛せるということに感動します!!
 
おまけに階段!!
もう素晴らしすぎて何もいえません・・・。
 
 
年をとった二人が、幸せそうに笑っていて、
ザオチンが「階段を上るたびに愛を感じます」と言っていたのにも感動してしまいました・・・。
まさに愛のなせる業、ですよね。
 
そして、二人が大切にしている宝物というのが、昔(50年も前に)お互いに相手に贈ったプレゼントというのがまた・・・(TロT)
 
純愛って素敵ですね〜〜〜。
 
本当に愛し合っているというのは、こういうことなんだな〜と、感じます。
10も年が離れているって、なかなか難しい恋愛だと思いますが・・・
70歳くらいになると、もうどっちが年上だとか、10違うとか、全然わからないものですね。
 
 
階段についての話をしたとき、ザオチンさん(80歳くらいの彼女)が「昔から優しい人だった」と言っていて、その言葉に横を向いて照れくさそうにしていたリュウさんの姿が印象的でした(^.^)
 
映画でも小説でもなく、本当にこんな素敵な純愛があるんですね〜。
なんだかとっても幸せな気持ちでいっぱいになった話でした。
 

 
posted by 水沢桃子 at 17:51 | Comment(4) | TrackBack(0) | 「アンビリバボー」感想

2007年12月08日

「アンビリバボー」“ゴミ拾い”犬のもも子

「アンビリバボー」は、世界各地のいろんな驚きや感動を再現VTRなどで見せてくれる、お気に入りの番組です。
 
 
大体前半と後半と二つのことをテーマにしているのですが、後半の「感動のアンビリーバボー」コーナー、今回(っていつの放映だかはわかりませんが・・・)は“犬のもも子”でした!
 
どんな話かと言うと・・・。
 
岩手県の盛岡市にあるお寺の住職、中野英明(えいみょう)さんは、ある年の春、一匹のワンちゃんをもらいます。
ゴールデンレトリバーのワンちゃんはもも子と名づけられ、すくすくと成長。
 
もも子の散歩コースは岩崎川のそば。
しかし毎日不法投棄されたゴミが散乱していました。
それに英明さんは目をそらし、見ないふりをしながら過ごしていたのでした。
 
 
そんなある日、写真が趣味の英明さんが山に登ったとき、青年がゴミ拾いしているのを見かけます。
その青年は別に山の管理人ではないのに、なぜゴミを拾っているのかと英明さんがたずねると、青年は笑って答えました。
 
この山は何度も登っている大好きな山ですから。恩返しをしているだけです」・・・と。
 
それを聞いた英明さんは、わが身に置き換え、翌日から川のゴミ拾いを開始。
しかし拾っても拾っても、翌日には不法投棄されているという、繰り返しです。
 
それでも英明さんは、朝と夕方、もも子の散歩のときに必ずゴミ拾いを続けました。
 
 
そして、奇跡はそこから始まります。
もも子が十ヶ月になった頃、川に捨てられたゴミを拾おうとした英明さんが川に落ちてしまいました。
もも子はすぐに駆け寄ってきたのですが、なんとそのあと、川のゴミを拾ってきたのです。
 
 
そしてそれからもも子は、毎日ゴミ拾いをする犬になったのでした・・・(゜ロ゜) 
 
毎日毎日ゴミ拾いをするもも子。
英明さんが教えたわけでもないのに、人間が捨てたゴミ以外のものは拾ってきません。
 
そんな賢くて忠実で可愛いもも子の姿は一目を引きます。
 
そして気がつくと、いろんな人たちがもも子と一緒にゴミ拾いをするようになっていました・・・。
 
 
人間が捨てたゴミを、犬が拾う。
そんな状態のままでいるわけにはいきません。
英明さんは市に手紙を書き、ついにゴミのポイ捨て禁止令がつくられます。
そしてもも子に感謝状が贈られました(^.^)
 
もも子は宣伝ポスターにも起用され、たくさんの人から愛されます。
 
 
  
・・・・・・素晴らしい犬ですね〜〜〜V(≧∇≦)v
 
もも子だけど、私とは大違いです・・・。
(いえ、ゴミのポイ捨てはしませんが)
 
生まれたときはただのワンちゃんだったのに、飼い主の英明さんの姿に影響を受けたんでしょうか。
なんて頭がよくて偉い犬なんだろう・・・!!
 
 
何だかもう、VTR観てたら泣けて泣けて・・・。
ものすごく感動してしまいました〜〜!!
いじらしいもも子の姿に・・・!!
そしてもも子によって、みんなが影響されていく世界にも。
 
 
ゴミは人間が作り出したものですが、最低限のマナーとして、不法投棄はダメです・・・。
でも、そのことをいくら人間が言っても伝わらない。
それがただ、黙々とゴミを拾うワンちゃんだったからこそ、心に響いたんでしょうね。
 
 
もも子は14歳でこの世を去りましたが、英明さんが言っていたように、たくさんの人の中に生きつづけていくのだと思います。
 
最後の方で、綺麗になった川が映し出されていて、とても感動しました。
やっぱり、綺麗な自然はいいですね・・・。
これからもずっと、守り続けていけたら素晴らしいと思います。
posted by 水沢桃子 at 20:38 | Comment(4) | TrackBack(0) | 「アンビリバボー」感想

2007年12月09日

「アンビリバボー」尾道丸沈没・・・救助への思い

「アンビリバボー」、今回は船沈没にまつわる感動の物語です。
 
 
野島崎沖2000キロ。
ここは「魔の海域」と呼ばれる、世界3大危険海域の一つで、よく船が沈没する恐ろしい場所です。
原因は高さ20メートルにもなる三角波と呼ばれる高波。
しかしアメリカと日本をつなぐ最短距離ルートなので、貨物船はここを通らないわけにはいきません。
 
 
1980年、12月29日。
日本へ戻ろうとしていた船『だんぴあ丸』はものすごい嵐に巻き込まれます。
そしてそのさなか、SOSを受信しました。
SOSを出した船は『尾道丸』という貨物船です。
 
だんぴあ丸の船長尾崎さんは、自身の船の危険も考慮しつつ、それでも見捨てられないと、尾道丸がいる方向へ船を進めました。
 
 
そして通信可能位置まで近づいたところで、尾道丸の船長北浜さんと連絡を取ります。
船員たちのため、すぐにでも救助してほしいと願い出る北浜さんとは逆に、冷静に判断する尾崎さん。
 
尾道丸が積んでいたのが石炭だったので、今しばらく沈没しないから大丈夫、嵐がやむのを待ちましょうと告げたのです。
 
 
実は尾崎さんは、昔大学の卒論テーマで「沈没のメカニズム」という題材を取り上げていました。
そのなかで、石炭が海水の浸入を長く防ぐということを知っていたのです。
 
 
しかし、12月31日になっても嵐はやみませんでした。
 
尾道丸の船首は折れ曲がり、船内がむき出しになってしまっている状態でした。
船員たちの恐怖も限界まで来ており、近くに見えるだんぴあ丸の姿を見て、海に飛び込みかねない状態です。
 
 
それを見た尾崎さんは、停船していただんぴあ丸を尾道丸の方に動かすよう指示を出します。
嵐の中船を動かすのはかなり危険な行為でしたが、尾崎さんには考えがありました。
 
荒れ狂う高波が容赦なくだんぴあ丸を襲う様を、尾道丸の船員たちに見せ、冷静さを取り戻させようという捨て身の行動だったのです(゜ロ゜) 
 
尾崎さんがこうまでしてみんなを救おうとしたのには理由がありました。
 
10年前沈没した船、『かりふぉるにあ号』に乗っていた尾崎さんの友人が、「自分は助かったけど、ずっと一緒に乗っていた仲間が死んでしまった。そのときの悲しみは忘れることができない」と言ったのです。
そのとき尾崎さんは、“なにがあろうと一人の犠牲者も出すまい”と心に決めたのでした・・・。
 
 
そして尾崎さんが、1月1日になったら救助できるかもしれないと、北浜さんに告げると、北浜さんは「自分の責任だ」とつぶやき、それきり応答がありません。
その姿に、ある覚悟を感じ取った尾崎さんは、一人の船員にあることを頼みます。
 
 
そして1月1日。
嵐がようやく収まり、救助できる状態になりましたヽ(´▽`)/
 
 
「必ず全員を救助してくれ」との尾崎さんの言葉通り、船員たちは、着実に尾道丸の船員を救助していきます。
 
そんな中、一人船内に残っていたのは船長の北浜さんでした。
彼は船と積荷を沈める責任を感じ、自分も船と共に沈むつもりだったのです・・・。
 
 
そこで、尾崎さんは通信を送りました。
 
“尾道丸のみなさん、お疲れでしょう。わが船の料理長が、正月料理を作りました。全員そろって新年の祝杯をあげようじゃないですか”・・・。
 
 
暮れ、そしてお正月は、一番家族が恋しくなる季節です。
ましてもうすぐ日本につく頃に船が難破、死ぬかもしれないという状況になって、心の底から日本が、家族が恋しくて仕方ない気持ちでいっぱいだったと思います。
 
そのときに、そのセリフ。
 
“生きたい!”
“生きてもう一度家族に会いたい!”
 
そんな気持ちにさせる、素晴らしいセリフだったのではないでしょうか・・・(*^▽^*)
 
 
そして船長尾崎さんの機転によって、尾道丸の船員全員、無事にだんぴあ丸に乗り込むことができたのでした・・・!
 
 
そのあと、尾道丸の船員には新しい服が用意され、おせち料理がふるまわれました。
まさに素晴らしい新年の幕開けです・・・。
 
 
その救助行為によって、のちに尾崎さんには賞が贈られました。
そして事故以来、尾崎さんと北浜さんは年賀状をやり取りしているそうです。
 
 
北浜さんは事故のことをふり返って、「日本へ到着する間際で、食料も残り少なかったはずなのにおせちを用意してくれて本当に感動しました」と話していました。
 
また、尾崎さんは救助について、「遭難信号を受けたら救助に向かうのは当たり前です。当たり前のことをしただけです」と答えていました。
 
 
・・・・・・素晴らしいです・・・!!V(≧∇≦)v
 
何度も素晴らしい行為をしている人の話を見ているけど、そういう人たちは決まって「自分は当然のことをしただけ」だと答えるのです。
 
当然の行為、だなんてとんでもないです!!
自分の命を危険にさらして誰かを助けるのが当然だなんて・・・。
 
・・・・・・そんな人に私もなりたいです・・・!(>_<)
 
 
尾崎さんが救助を成功させることができた理由の一つは、知識があったから、というのが大きいようです。
 
石炭が沈みにくい、というのもそうだし、
冬の北半球では、強い季節風が4日以上続くことはほとんどない、という知識があったため、救助のタイミングを計れたのだとか・・・。
 
すごいですね〜〜・・・(゜ロ゜)
 
やっぱり、知識ってものすごく大切なんですね・・・。
 
 
なんにしても、船員たち全員、お正月から「自分は助かったけど、仲間が死んだ・・・」という悲しい気持ちにならずにすんで本当によかったですね♪
posted by 水沢桃子 at 16:17 | Comment(2) | TrackBack(0) | 「アンビリバボー」感想

2007年12月15日

「アンビリバボー」二匹の逃亡豚

「アンビリバボー」・・・今回はイギリスで起きた、二匹の豚の逃亡劇を取り上げたいと思います(^.^)
 
 
1998年のイギリスの田舎町・・・養豚場から、加工工場へ送られた二匹の豚。
しかし彼らは隙をついて、逃亡しますΣ(゜Д゜;)
 
なんとか捕獲しようと雌豚でおびきよせようとしても、彼らはまだ子供だったため無関心。
タムワース種の豚ということで、大型で凶暴なため、捕まえることができません。
 
そんなこんなで、逃亡は長期化してしまいました・・・(;^∇^ )
 
 
二匹の豚の逃亡劇は、マスコミの目を引きます。
新聞に大きく取り上げられ、人々の関心を集めます。
 
さらにその姿を、映画「明日に向かって撃て!」の主人公ブッチとサンダースになぞらえたため、人々から英雄のように祭り上げられ、一気に人気者になってしまいました。
 
ちなみに映画「明日に向かって撃て!」というのは、犯罪を犯し、無謀な逃亡劇を繰り広げる物語で、実在の人物がモデルになっているらしいです。
私は観たことがありませんが、かなり大ヒットした作品・・・らしい。
 
 
二匹の豚にもそれぞれブッチとサンダースという名前がつけられ、ぬいぐるみなどの関連商品がバカ売れ。
人々は彼らの逃亡を心から応援していました・・・(*´▽`*)
 
 
しかし、養豚場のオーナーはそんな気持ちには到底なれません。
豚が逃げたため、食肉業者からは代金の支払いを拒否され、豚に畑をあらされた人からは損害賠償を請求されるなど、迷惑をこうむっています。
なんとしてでも捕まえろ、と警察に言い放ちます。
 
 
そしてイギリス中が注目し、応援した豚たちの逃亡劇は幕を下ろします・・・。
 
 
もう、私も見ている間中応援してしまっていたので、二匹の豚に銃が向けられたときは大ショックでした・・・(>_<)
 
 
・・・・・・でも、撃ったのは麻酔銃でしたヽ(´▽`)/
 
喜んだのもつかの間、彼らは結局養豚場のオーナーによって、加工工場へ送られそうになります。
 
 
しかし!!
デイリーメール誌という新聞社が、2000ポンドで豚たちを買ったのです(*´▽`*)
 
「彼らの逃走中は新聞の売り上げが倍増しました。ささやかなお礼です」とのお言葉。(すばらしいです!!)
 
 
2003年にはBBCによってテレビドラマ化までしたということで、それもちょっと見てみたいですね〜〜(あ、もちろん字幕で)。
 
そして彼らはどうなったのかというと、ケント州動物観光施設レアー・ブリーズ・センターというところで、元気に暮らしているようです・・・(*´▽`*)
 
 
私は動物が大好きですが、豚はあんまり好きではありません。
えーと、あんまりかわいくないというか(;´∇` )
・・・でも、ブッチとサンダースはかわいかったですね。
やっぱりナレーション付きの逃亡VTRがよかったんでしょうね。
 
 
こういうのを見ると、自分自身も含めて、人間というのは実に不思議ないきものだなぁ、と思わずにはいられません。
 
豚肉をおいしく食べているのに、豚の逃亡を応援しているってなんだろう。
 
なぜ、食べるために育てられた豚に感情移入してしまうんだろう。
 
感情移入している優しい部分と、無関心に生き物を食べる部分が共有している・・・。
 
 
本当に人間って・・・不思議です(;´∇` )
そして、なんか・・・嫌ですね。
・・・しかたないんですけど。人間はやめられませんし。
 
 
ともあれ、ブッチとサンダースが助かって本当によかったです。
自分の運命を変えてしまったスゴイ豚くんたち。
彼らには幸せに生きていってほしいと思います(^.^)
posted by 水沢桃子 at 14:31 | Comment(2) | TrackBack(0) | 「アンビリバボー」感想

2007年12月19日

「アンビリバボー」雪山で遭難・・・携帯電話の命綱

「アンビリバボー」、雪山で遭難した一人の男性のお話です。
 
2002年の5月、コロンビア共和国ネパード・デル・ルイス火山という山に、登山に出かけたグループがいました。
 
その中の一人、レオナルド・ディアス(26)は、仲間内から「怖いもの知らずのクレイジー・レオ」と呼ばれていました。
彼は本格的な今回の登山も、遊び感覚でした。
 
ところが、そんな彼が恐ろしい体験をすることになったのです。
 
 
山は吹雪に見舞われ、レオナルドは一人、仲間たちからはぐれてしまいます。
携帯電話で仲間と連絡を取ると、なんと仲間たちは下山しているとのこと。
レオナルドは、仲間とはぐれてから一人、4時間も歩き続けて山頂付近まできていたのです。
 
心配する仲間に、思わず強気な態度で返してしまったレオナルド。
しかしその夜、たった一人でキャンプを張り、寒さに凍えた彼は、仲間に助けを求めます。
なにしろ、そこでは夜になるとマイナス20度にまでなるという、冷え込みです。
レオナルドの格好は、とてもその寒さに耐えられるようなものではありませんでした。
 
 
ところが!!
 
仲間に連絡をしようとしたらつながりません(゜Д゜|||)
 
・・・実は彼の携帯電話は、事前に入金した分だけ使用できるという、プリペイド式のもの。
さっき仲間としゃべったあれが、ラストチャンスだったのです・・・。
 
レオナルドは夜を震えながらすごし、翌朝、さらに強烈になった吹雪の中、下山しようとします。
 
 
ところが、そのとき、鳴らないはずの携帯電話がなったのでした・・・Σ(・□・ )
 
それは、携帯電話会社のコールセンターからのもの。
お金を入金してほしいという、催促の電話でした。
 
まさに天の助けともいえるチャンス到来!!
 
ところが、いきなり「遭難した」と言ったレオナルドのセリフは、イタズラと勘違いされ、切られてしまいます(>_<)
 
・・・そこでレオナルドの命運は尽きた・・・かに見えましたが、
再びコール音が!!
 
それはさっき電話をかけてきた女性の上司、マリアからの電話でした。
 
もしかしたら遭難が本当かもしれないと思った彼女が、かけてきてくれたのです!!
 
 
そこでレオナルドは、仲間のいるベースキャンプに連絡して、救助に来てもらえるよう頼んでほしいという願いと、携帯電話に入金して通話できるようにしてほしいということを頼んだのでした。
 
しかし、せっかく携帯がつながっても、場所の関係上、結局コールセンター以外とは通話できませんでした・・・。
 
そんなレオナルドに、マリアは
「救助が来るまで私が話し相手になるわ」と申し出てくれたのですヽ(´▽`)/
 
たった一人、雪山で凍えている心細いレオナルドにとって、それはかなりの支えになったのではないでしょうか。
特にレオナルドの母親くらいの年齢のマリアは、そのときのレオナルドにとっては母親のように安心できたかもしれません。
 
 
ところが、すぐに救助ができないことが、ベースキャンプからマリアに伝えられます・・・。
 
吹雪がすごくて、視界が悪く、とても人を捜せる状態ではないというのです。
また、レオナルドの位置がつかめないため、どこを捜せばいいかの見当もつきません。
 
レオナルドを救助するにはまず吹雪がやんでから、ヘリコプターで捜索するしかないとのことでした・・・。
 
それは事実上、助けは来ない、というか、いつ来るかわからないという、絶望的なことでした。
 
マリアはレオナルドにその事実を隠し、務めて明るく振舞います。
 
また、マリアの部下たちも協力して、みんなで交代でレオナルドと電話をしました。
その際、明るい話題をすることと、携帯のバッテリーを長持ちさせるため、長電話はしないということを約束として、レオナルドを励まし続けたのです。
 
 
しかし、携帯電話でいくら励ましても、レオナルドの置かれた状況が絶望的であることには変わりありません。
 
衰弱し、体力も限界を超え、もう助からないと思ったレオナルドは、持っていたビデオカメラに自分の声を録音します。
 
「いつかこれが笑い話になることがあるんだろうか・・・。
今はとても辛い。家族に会いたい・・・。
こんなところで死にたくない・・・」
 
 
レオナルドの命の灯火は、消えるしかありませんでした。
吹雪は止まず、助けも来ない。
携帯電話で心は励まされても、身体が限界でした。
 
 
しかし・・・!!!
 
奇跡が起こったのです!!!
 
 
偶然近くを通りかかった登山家が、レオナルドのテントを見つけてくれたのです・・・!!V(≧∇≦)v
 
 
ものすごい奇跡でした!!
 
そして・・・助かったレオナルドは、一週間後、マリアの会社にお礼を言いに行きました。
 
「助かったのは皆さんのおかげです。・・・第二の人生だと思って大切に生きたい」
 
そう言って笑うレオナルドの姿は、ただ無鉄砲なだけの青年ではなく、大切なものに気がついた、まさに生まれ変わったレオナルドでした・・・(*´▽`*)
 
 
それから5年後の今でも、マリアとレオナルドの交流は続いているそうです。
レオナルドはマリアを「もう一人の母親のように思っています」と言い、
マリアも「私は子供を持てなかったけど、レオナルドが本当の息子のようになってくれてとても嬉しいわ」と笑っていました。
 
 
感動しました・・・(*´▽`*)
 
顔も知らない、全くの無関係な他人だったのが、
こういう形で知り合い、一つの命が救われた・・・。
・・・実際、命が救われたのは、救助されたからですが、
マリアたちとの電話が彼を支えていたことも事実です。
それがなければ、無茶な下山をして死んでいたかもしれません。
 
 
やっぱり、助かったという奇跡の物語を観るのは嬉しいです。
遭難して助かるというのは、滅多にない奇跡なので、それだけに感動もひとしおでした(*^▽^*)
 
 
それにしても、マリアはすごいですね。
彼女が最初に気づいてくれなかったら、レオナルドは生きてはいられなかったし。
そのあともずっと励まし続けるなんて、なかなかできないことだと思います。
 
携帯電話が命綱になるというのも、時代の流れを感じました。
レオナルドは本当に幸運でしたね。
これからもマリアや周りの人を大切にしていってほしいです(^.^)



posted by 水沢桃子 at 16:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 「アンビリバボー」感想

2008年01月01日

「アンビリバボー」盲導犬サーブ

「アンビリバボー」今回は、盲導犬サーブの話です。
 
盲導犬というのは、視覚障害がある人のサポートをしてくれる犬です。

育てるのにとても時間と費用がかかるので、一人につき一匹がもれなく、というわけにもいかず、普及はまだまだ大変のようですが・・・。
 
 

1978年、亀山道夫、美智子夫妻のところに、待ちに待った盲導犬がやってきました。(夫妻は二人とも視覚障害者です)
盲導犬の名前は、サーブ。
主人に仕える、と言う意味です。
 
現在、盲導犬はほとんどラブラドールリトリバーだそうですが、
かつてはシェパードも起用されていた時代があったようです。
そして、サーブもシェパードでした。
 
当時は、今よりもさらに障害者にとって、外出が大変でした。
大きな国道にも障害者用のタイルが設置されていないので、たった一本の杖を頼りに、少しずつ歩くしかできません。
 
しかし、サーブが来てから、道夫さんの生活は一変しました。
 
階段でも、危険な国道でも、サーブがしっかりとリードしてくれるので、外を歩くのが怖くありません。
障害者の人にとって、安心して外を歩けるということは、本当に特別なことです。
 
道夫さんはサーブのためになると思うことは何でもしてやりたいと考え、
夫妻にとって、一人息子ができたようなものでした。
(*サーブは女の子であることが、コメントをくださった方により判明!「一人娘」、でした。ごめんねサーブ、間違えちゃって)
 
 
ところが、サーブが来て1年と10ヶ月がすぎたある冬の朝、悲劇が起こります・・・。
 
その日は雪が降っていて、道夫さんは実家に向かうところで、
サーブと二人、国道156号線の道を歩いていました。
 
そこへ、前方から車が突っ込んできたのです。
 
車はカーブを曲がりきれず、道夫さんのところに突進してきました。
この頃道には歩道がなく、さえぎるものは何もありません・・・。
 
 
しかし、道夫さんは奇跡的に軽症でした。
 
なぜかというと、それは、サーブのおかげだったのです。
 
サーブは、車が突進して来たとき、道夫さんをかばうために、道夫さんを車と反対の方向に引っ張りました。
さらに、突っ込んでくる車に向かって突進し、体当たりすることで車の方向を変化させ、道夫さんを守ったのです・・・。
 
 
サーブのこういった行動は、訓練されたものではありませんでした。
つまりサーブは、自発的に道夫さんを守ったのです。
 
・・・しかし、当然ですが、車に突っ込んで無傷なはずはありません。
 
サーブは大怪我をし、左前足を切断することになってしまいます。
 
 
盲導犬として、活動できなくなってしまったサーブは、道夫さんと別れることになってしまいました。
サーブを引き取りたいと申し出た道夫さんですが、
盲導犬協会の人に、年をとったサーブの面倒を見るのは大変だからと断られてしまいます。
サーブは協会に引き取られました。
 
それでも、サーブに会いに来た道夫さんの側に寄り添うサーブは、
ずっと道夫さんが主人だと言っているようでした・・・。
 
 
当時、サーブには事故の治療費も支払われていませんでした。
しかし、サーブの行動は、人々に大きな反響を巻き起こしました
 
盲導犬に自賠責保険を認めよう、ということと、
危険な国道に歩道を設置することを法律化しようと、
地元の議員たちが動き出したのです・・・(゜ロ゜)
 
 
そして、1983年、国会に道夫さんとサーブが呼ばれ、
ついに盲導犬への自賠責保険の法律が作られ、
サーブにも支払われることになったのです・・・ヽ(´▽`)/
 
 
サーブの物語は、盲導犬の存在があまり知られていなかった20年前の日本に大きな影響を及ぼしました。
 
1985年、総理大臣功労賞のメダルを授与したサーブ。
さらに1986年に名古屋駅に「盲導犬サーブの像」が設置されました。
 
そして、日本国内だけではなく、海外にも反響がありました。 
盲導犬の先進国、アメリカにも呼ばれ、表彰されます。
 
また、それまで盲導犬がいなかった韓国に、盲導犬制度が導入されたのです。
 
 
サーブは、視覚障害者の人たちの道を開いた盲導犬になりました。
 
それからもサーブは、盲導犬の普及キャンペーンなどの活動を続け、
1988年に11才の生涯を閉じました。
 
けれども、サーブが開いた道は、少しずつ広がっています。
1982年当時、盲導犬は374頭でしたが、
現在は約1000頭まで増えました。
 
 
道夫さんにとっては、こういった様々なところにサーブと共に呼ばれるたびに、
離れ離れになったサーブと再会できたことが、何よりも嬉しかったそうです。
おそらく、サーブにとっても嬉しかったでしょうね(*´▽`*)
道夫さんは、命をかけて守ったご主人ですから・・・。
 
 
事故当時、歩道のなかった国道156号線にも、
法律の改正によって、立派な歩道が設置されています。
 
すべての国道に、ちゃんとした歩道ができ、
障害者の人たちが安心して歩けるようになったらいいですね。

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「アンビリバボー」盲導犬サーブ

「アンビリバボー」今回は、盲導犬サーブの話です。
 
盲導犬というのは、視覚障害がある人のサポートをしてくれる犬です。

育てるのにとても時間と費用がかかるので、一人につき一匹がもれなく、というわけにもいかず、普及はまだまだ大変のようですが・・・。
 
 

1978年、亀山道夫、美智子夫妻のところに、待ちに待った盲導犬がやってきました。(夫妻は二人とも視覚障害者です)
盲導犬の名前は、サーブ。
主人に仕える、と言う意味です。
 
現在、盲導犬はほとんどラブラドールリトリバーだそうですが、
かつてはシェパードも起用されていた時代があったようです。
そして、サーブもシェパードでした。
 
当時は、今よりもさらに障害者にとって、外出が大変でした。
大きな国道にも障害者用のタイルが設置されていないので、たった一本の杖を頼りに、少しずつ歩くしかできません。
 
しかし、サーブが来てから、道夫さんの生活は一変しました。
 
階段でも、危険な国道でも、サーブがしっかりとリードしてくれるので、外を歩くのが怖くありません。
障害者の人にとって、安心して外を歩けるということは、本当に特別なことです。
 
道夫さんはサーブのためになると思うことは何でもしてやりたいと考え、
夫妻にとって、一人息子ができたようなものでした。
(*サーブは女の子であることが、コメントをくださった方により判明!「一人娘」、でした。ごめんねサーブ、間違えちゃって)
 
 
ところが、サーブが来て1年と10ヶ月がすぎたある冬の朝、悲劇が起こります・・・。
 
その日は雪が降っていて、道夫さんは実家に向かうところで、
サーブと二人、国道156号線の道を歩いていました。
 
そこへ、前方から車が突っ込んできたのです。
 
車はカーブを曲がりきれず、道夫さんのところに突進してきました。
この頃道には歩道がなく、さえぎるものは何もありません・・・。
 
 
しかし、道夫さんは奇跡的に軽症でした。
 
なぜかというと、それは、サーブのおかげだったのです。
 
サーブは、車が突進して来たとき、道夫さんをかばうために、道夫さんを車と反対の方向に引っ張りました。
さらに、突っ込んでくる車に向かって突進し、体当たりすることで車の方向を変化させ、道夫さんを守ったのです・・・。
 
 
サーブのこういった行動は、訓練されたものではありませんでした。
つまりサーブは、自発的に道夫さんを守ったのです。
 
・・・しかし、当然ですが、車に突っ込んで無傷なはずはありません。
 
サーブは大怪我をし、左前足を切断することになってしまいます。
 
 
盲導犬として、活動できなくなってしまったサーブは、道夫さんと別れることになってしまいました。
サーブを引き取りたいと申し出た道夫さんですが、
盲導犬協会の人に、年をとったサーブの面倒を見るのは大変だからと断られてしまいます。
サーブは協会に引き取られました。
 
それでも、サーブに会いに来た道夫さんの側に寄り添うサーブは、
ずっと道夫さんが主人だと言っているようでした・・・。
 
 
当時、サーブには事故の治療費も支払われていませんでした。
しかし、サーブの行動は、人々に大きな反響を巻き起こしました
 
盲導犬に自賠責保険を認めよう、ということと、
危険な国道に歩道を設置することを法律化しようと、
地元の議員たちが動き出したのです・・・(゜ロ゜)
 
 
そして、1983年、国会に道夫さんとサーブが呼ばれ、
ついに盲導犬への自賠責保険の法律が作られ、
サーブにも支払われることになったのです・・・ヽ(´▽`)/
 
 
サーブの物語は、盲導犬の存在があまり知られていなかった20年前の日本に大きな影響を及ぼしました。
 
1985年、総理大臣功労賞のメダルを授与したサーブ。
さらに1986年に名古屋駅に「盲導犬サーブの像」が設置されました。
 
そして、日本国内だけではなく、海外にも反響がありました。 
盲導犬の先進国、アメリカにも呼ばれ、表彰されます。
 
また、それまで盲導犬がいなかった韓国に、盲導犬制度が導入されたのです。
 
 
サーブは、視覚障害者の人たちの道を開いた盲導犬になりました。
 
それからもサーブは、盲導犬の普及キャンペーンなどの活動を続け、
1988年に11才の生涯を閉じました。
 
けれども、サーブが開いた道は、少しずつ広がっています。
1982年当時、盲導犬は374頭でしたが、
現在は約1000頭まで増えました。
 
 
道夫さんにとっては、こういった様々なところにサーブと共に呼ばれるたびに、
離れ離れになったサーブと再会できたことが、何よりも嬉しかったそうです。
おそらく、サーブにとっても嬉しかったでしょうね(*´▽`*)
道夫さんは、命をかけて守ったご主人ですから・・・。
 
 
事故当時、歩道のなかった国道156号線にも、
法律の改正によって、立派な歩道が設置されています。
 
すべての国道に、ちゃんとした歩道ができ、
障害者の人たちが安心して歩けるようになったらいいですね。

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2008年12月28日

「アンビリバボー」3つのビフォー物語

「ビフォー物語 有名人の知られざる過去」アンビリバボーです。
あの有名な話が生まれるにはこんなキッカケがあった、とかそういうやつです。
 
その1
1939年、アメリカのシカゴに住むロバート・メイという男性。
通信販売会社で宣伝原稿を書く仕事をしていましたが、給料も安く、毎晩遅くまで働かなくてはなりませんでした。
幼い娘の面倒も見なくてはならないので、毎日大忙しです。
 
そんな中、パンフレットに載せる、あるイベント用のストーリーを考案するよう命じられましたが、面白いストーリーなど考え付きません。
なぜなら、妻はガンで寝たきり、その治療費を稼ごうにも、借金に苦しむ日々を送っていたからです・・・。
 
子供の頃からロバートは身体が弱く、スポーツも苦手でいじめられっ子。
いじめていたクラスメイトたちはほとんど大学に行ったのに、貧しかったためロバートは大学に行けませんでした。
 
今までの人生を振り返ってみて、本当に最悪だった・・・とため息。
と、その瞬間、ロバートの頭にあるアイディアが閃きました!
 
そしてあるストーリーを一気に書き上げたのです。
 
その話を早速幼い娘に聞かせると・・・
バーバラ(娘)の瞳は輝き、「もう一度聞かせて」とせがまれました。
 
それは、劣等感の塊だった主人公が、あることで認められて人気者になるストーリー(*^▽^*)
どんなに人と違っていても、希望を捨てなければいつかは必ず報われる・・・
そんなメッセージが込められたその主人公とは・・・。
 
『赤鼻のトナカイ』ルドルフ!!!
 
ロバートがこの話を書くまで、サンタのトナカイは8頭でした。
しかしロバートは、9頭目のルドルフを登場させたのです。
 
赤い鼻を理由にバカにされ、悩み続けてきたルドルフが
ある霧の夜、プレゼントを配りに行けないと困り果てたサンタから、
先導役に大抜擢されるというもの。
そしてその大役を見事果たし、サンタに誉められたことで自信を取り戻すというストーリー♪
 
発表と同時に大きな反響を呼び、大人気になったそうです。
しかし最初は会社の命令で作ったものだったため、会社に著作権があったのですが、のちに譲られ、ロバートたちに大きなプレゼントをもたらしてくれたのでした。
まさに、このストーリーのように・・・。
 
そのあとレコードもでて、今やクリスマスの定番キャラクターとなった赤鼻のトナカイ。
生みの親が主人公そのものだったんですね・・・。
私も赤鼻のトナカイ、大好きです・・・(*´▽`*)
自分自身が劣等感だらけなので、本当に胸に染みます。
 
 
その2
1876年、アメリカマサチューセッツ州の精神病棟に、緊張型精神分裂病の少女がいました。
少女は何にも反応を示さず、ベットにうずくまっているだけ。
回復の見込みがないとされ、家族からも見放されていました。
 
そんな彼女を気にかける一人の看護師がいました。
 
食事を取らず、衰弱していく少女。
誰もがさじを投げる中、彼女だけは少女を放っておけませんでした。
なぜなら、彼女にも、同じくらいの娘がいたからです。
 
そのため、せめて自分にできることはないかと、クッキーを焼いて持って来ました。
“あなたは一人じゃない。ここに気にかけている人間がいるんだよ”と思いを込めて。
 
それから毎日、話しかけながら手作りのクッキーを届けました。
「どんなお菓子が好き?言ってくれればすぐに作ってあげるからね」
 
そして数ヶ月たったある日、いつものようにクッキーを届けようとして、
机の上に置いたクッキーがなくなっているのに気づいた彼女。
少女が食べてくれた・・・その喜びに胸が熱くなりました。
 
そして少女は、彼女に、「ありがとう・・・」と言葉を告げました。
彼女は少女を抱きしめ、「大丈夫、あなたは一人じゃないの」と答えます。
それは少女の心の扉が開いた瞬間でした・・・。
 
そして10年後、少女が入院していた病院に、一人の紳士が訪ねてきました。
重度の身体障害を持つ娘の世話をしてくれる人物をもとめていたのです。
院長はある人物を、院長室に呼び寄せました。
 
その人物こそ、かつて死を待つばかりだったあのときの少女。
 
アニー・サリバン。
 
そして世話をしたのは、もちろんヘレン・ケラー。
 
以来50年間、三重の障害を持つヘレンに付き添いました。
そしてサリバン先生は、その間何度もヘレンに言い聞かせたのです。
 
「大丈夫、あなたは一人じゃないの」
 
それは自分自身を救ってくれた言葉でした。
 
そして再び奇跡は起こったのです・・・・。
 
 
のちにこの実話を元に作られた映画『奇跡の人』。
奇跡の人とは、三重苦を克服したヘレン・ケラーだと思われがちですが、
原題は『ミラクルワーカー』奇跡の功労者。
   サリバン先生のことを指しているのでした。
 
日本では、奇跡の人=ヘレン・ケラーと思われていますが、
海外では、奇跡の人=サリバン先生、というのが常識となっているそうです・・・。
 
ヘレン・ケラーの話は子供の頃に読んで、ものすごく感動した覚えがあります。
大きくなってからは、サリバン先生もまたすごい人だなと感じるようになりました。
しかし本当は、『奇跡の人』はサリバン先生のことだったなんて知りませんでした。
でもそうなのかもしれませんね・・・。
それを言うなら、サリバン先生を救った看護師さんもまた、素晴らしい人です(*´▽`*)
 
 
その3
1914年、イギリス軍獣医ハリー・コールボーン中尉は、猟師に引っ張られているある動物を見つけ、譲り受けることにしました。
親とはぐれ、おびえていたそのメスの動物は、赴任地の名前を取ってウィニペグと名づけられ、軍の宿舎で飼われることになります。
そしてそのうち、兵士たちの人気者になりました。
 
しかしその年の終わり、フランスへの出征に備え、ウィニペグを手放すように言われ、仕方なく一時的にロンドン動物園に預けます。
 
5年後、軍を除隊したハリーが動物園へ駆けつけると、ウィニペグは人懐こい性格だったため、動物園でも人気者になっていました。
そのため、1919年12月、正式にロンドン動物園に寄贈。
 
そのあともウィニペグは大人気です。
そして、ウィニペグの大ファンの少年ロビンは、持っているぬいぐるみをウィニペグに見立てて遊んでいました。
 
ロビンの父は、そんな息子の様子を日記につけ始めます。
実はロビンの父は童話作家、A・A・ミルン。
 
やがて日記を元に童話を発表。イギリスで大ヒットになりました。
その後海外へ向けても出版され、やっぱり大人気に。
 
そして1961年、アメリカ。
ウォルト・ディズニーがこの本に目をつけます。
実はディズニーの子供たちがこの本のファンだったのです。
 
そしてディズニーキャラクター誕生。
ウィニー・ザ・プー・・・くまのプーさん♪
世界中に愛されるキャラクターになりました。
 
ちなみに、ウィニペグはメスだけど、童話にする際、冒険の話だったためオスに変わったそうです。
 
 
くまのプーさんは、実在するくまさんから生まれたキャラクターだったんですね。
私はくまのプーさんの話読んだことないですけど、キャラは知ってます。
冒険の話でも、女の子でもいいような気がしますけど・・・ダメかな(;´∇` )
 
 
有名な物語(実話)が生まれるまでにも、いろいろなキッカケがあります。
そういうものを知ると、またその世界がふくらむ感じがしていいですね。
3つの話を見れて、とても嬉しかったです♪
特に赤鼻のトナカイと奇跡の人については、大好きだったのでヽ(´▽`)/
 
posted by 水沢桃子 at 15:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 「アンビリバボー」感想

2009年01月02日

「アンビリバボー」バスケを変えたビフォー物語

今回のアンビリバボーは、『バスケットボール』を変えたビフォー物語です。
 
かつては、規律とディフェンスを重んじる試合だったバスケットが、
今のような自由で攻撃的な形に変わったのは、ある一つの試合がキッカケだったそうです。
 

 
アメリカの小さな町でバスケットのコートをしていたドン・ハスキンスという男性は、
1965年、テキサスウエスタン大学のコーチにならないかと誘われました。
 
引き受けたものの、選手たちが勝てなければクビになってしまうので、早速有望選手をスカウトすることにします。
しかしそういう選手はもっと強い大学に取られてしまって確保できません。
 
そんな彼の目に留まったのは黒人選手。
当時は白人主流の時代で、“試合には多くても二人までの黒人選手”と言うのが暗黙のルールになっていました。
 
しかし勝つためにはこれだと考えたハスキンスは、黒人をスカウトします。
高校だけでなく、ストリートバスケットをしている黒人たちにも注目し、人材を集めました。
黒人の中には、活躍の場がないだけで、能力の高い選手が何人もいたのです。
 
こうして全米から7人の黒人選手が集められ、
白人選手5人とあわせて、12人のチームメイトがそろいました。
 
試合まであと三ヶ月。
強いチームにしなければクビになるかもしれず、
逆に強いチームにできれば、さらに上の大学へ誘われるチャンスもあるという状況。
ハスキンスはがむしゃらに特訓しました。
 
そんなハスキンスのしごきに、黒人選手は耐え抜きます。
他では味わうことのできない、試合に出してもらえるかもしれないという希望のために。
そしてそんな黒人選手に負けまいと、白人選手も努力しました。
 
そしてついに初戦がやってきました。
 
暗黙のルールだった、“黒人は二人まで”というルールを破るハスキンス。
みんながざわめく中、勝利するにはこれがベストメンバーだと押し切ります。
 
試合は、最初から圧倒的にハスキンスのチームが優勢でした。
黒人選手は、練習していないダンクシュートなどをやり始め、最初はそれに怒っていたハスキンスも、次第にそのプレイに魅了されます。
当然、試合はハスキンスのチームの勝利でした。

そしてチームはそのあとも勝ち続け、地区二位の好成績。
大喜びもつかの間、4000通あまりの手紙がその喜びに暗い影を落とします。
  
それは、黒人を罵倒する、嫌がらせの手紙でした・・・。
 
それでも、彼らはそのあとも勝ち続け、地区大会も優勝し、全国大会への出場も決めました。
しかし暗黙のルールを破ったチームへの非難はどんどん強まっていきます。
 
ついには、差別のプレッシャーで、選手たちも力を発揮できなくなり、
チーム内の空気も険悪になってしまいました。
そして、ハスキンスの自宅へも脅迫状が・・・。
 
そんな中でも、ハスキンスはあきらめませんでした。
選手たちを叱咤し、「周りを気にするな」と言い聞かせ、試合に出させ続けます。
 
プレッシャーにつぶされそうになりながらも、それ以上に優れた実力があった選手たちは、何とか試合を勝ちあがりました。
そしてついに決勝まで上り詰めたのです。
 
相手は、アドルフ・ラップコーチ率いるケンタッキー大学。
ウエスタン大学は大敗だと思われていました。
 
そして選手たちを必死に激励し続けていたハスキンスですが、
その決心が揺らがなかったわけではありません。
周りの声だけでなく、家族までが危険にさらされている脅迫状・・・。
本当にこのまま突き進んでいいのか、と、悩み続けていました。
 
しかしそんなとき、妻がそっとハスキンスを励ましました。
「あなたが正しいと思うことをやればいいわ。
子供たちのことは、私が必ず守るから」
・・・妻のその言葉に、ハスキンスは決意を固めます。
 
 
そして試合当日。
先発メンバーは全員黒人、と発表するハスキンス。
 
副コーチ?が「そんなことをすれば大問題ですよ。負ければあなたはクビどころか、二度とバスケット界に戻れなくなるかもしれない」と慌ててそれをとめようとします。
 
しかしハスキンスは選手に告げました。
「今まで俺はベストと思う選手を先発させてきた。
だから今日も今のベストメンバーを先発させる。
それでどうなったとしても、すべて俺が責任を取る。
だからお前たちベストを尽くせ!」
 
白人選手たちも、黒人選手たちに向けて、気持ちを伝えます。
“悔しいけれど、今のベストメンバーはお前たちだ”、と。
だから精一杯頑張って来い、と・・・。
 
それを受けた黒人選手たちも、しっかりとうなずき返し、
試合を前に、チームの心が一つになったのです。
 
試合に向かう選手たちに、ハスキンスは「お前たちの思うとおりにやってみろ」と伝えました。
 
 
そして始まった試合・・・。
途中、ケガや退場などもあったけれど、
大敗だと思われていたウエスタン大学の活躍はすごいものでした。
 
終わってみれば結果はなんと、ウエスタンチームの勝利です!!
 
その瞬間、会場中から巻き起こったのはブーイングではなく・・・
すさまじい拍手の嵐でした。
はじめ、黒人に反感を持っていた人々も、彼らの自由でパワフルなプレイに魅了されたのです。
ハスキンスは、コーチ就任以来初めて、選手たちを抱きしめました・・・。
 
 
そのあとハスキンスは、いくつもの大学からコーチ依頼を受け、20年間コーチを続けました。
通算719勝、全米トーナメントの出場14回の記録を打ちたてたその大学は・・・
 
ウエスタン大学。
 
ハスキンスは、条件のいい大学からの依頼を断り、
ずっとウエスタン大学でコーチを続けたのでした・・・。
 
 
あの試合後、暗黙のルールは消え去り、黒人選手の実力も正当に評価されるようになりました。
大学やNBAでも多くの黒人選手が採用されるようになったのです。
 
今では“全米バスケット史上最も偉大な試合”と言われているそうです。
 
 
2006年、この物語はハリウッドで映画化されました。
『グローリー・ロード』
公平さを重んじるハスキンス氏は、その収入も、関係者全員に均等に分配したそうです。
 
ハスキンス氏は語ります。
「私は、個性の強い選手たちに出会って、バスケットの概念が変わったのです。
それまでこんなに小さな学校が優勝することはありませんでした。
それを実現させてくれた選手たちを、誇りに思っています」
 
その後ハスキンス氏は、バスケットの世界の殿堂入りを果たし、
彼の名前のついた『ドン・ハスキンス通り』も誕生。
また、かつて練習していた体育館は、『ドン・ハスキンスセンター』と名づけられました。
そして、現在のNBA選手の約八割が黒人選手です。 
 
 
 
 
素晴らしい話でした。・゜・(ノ∀`)・゜・。
私はバスケはやらないし(運動苦手)、観るのも好きではないですけど(大体のスポーツ観戦は苦手)こういう話を観るのは大好きです!!
 
スポーツっていうのは本当に偉大ですね。
いろんなものを拭い去ってくれて、あとに感動を残してくれる・・・そんな感じがします。
映画もきっとものすごい感動するんでしょうね・・・。

posted by 水沢桃子 at 21:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 「アンビリバボー」感想

2009年03月01日

「アンビリバボー」花守りのリレー

春といえば桜。日本人にとっては特別な花・・・そんな気がします。
というわけで?今回は桜にまつわるアンビリを。
放映されたのはかなり前ですが、非常に心に残るお話でした。
 
 
昭和59年。
福岡の銀行に勤めていた土居さんという男性。
課長として多忙な日々を送っており、疲れはたまっていましたが、休みはなかなか取れません。
そんな土居さんが心癒される場所がありました。
 
それは近所のバス停のそばにある、桜並木。
 
『桧原桜(ひばるざくら)』と呼ばれるその桜並木は、池の水面にも映え、地元の人に深く愛されていました。
 
ところが、3月。桜のつぼみがつき始めた頃・・・
一本の桜が伐採されているのを目撃。
 
理由は交通量増加に伴う、道路拡張工事でした。
工事が再開されれば、残りも全て伐採される運命です。
 
ショックを受けながらも銀行へ向かった土居さん。
でもどうしても気になって仕方ありません。
一晩考えて、衝動的にある行動にでました。
  
明け方、土井さんは桜のもとへ走り、
歌を書いた一枚の紙を木に貼り付けたのです。
 
『花守り 進藤市長殿
花あわれ せめてはあと二旬
ついの開花を ゆるし給え』
 
そのときの気持ちを、土居さんは語りました。
「道路が便利になるのは必要なことだから、桜が切られるのは仕方がないなと思いながら・・・つぼみがいっぱいついてますよね。
あと二週間、三週間で花が開くのに、今切るのはかわいそうで・・・。
せめて花が開いて、花吹雪になるまであと二旬待ってほしいと・・・
 
そして3月11日、早朝。
土居さんが桜への想いを歌に託し、木に貼った数分後
別の男性が通りかかりました。
九州電力会社社長の川合さん  彼もまた、
桜と歌を見て
桜の運命に心を痛めました。
 
しかし何かをしたいけれど、工事をやめさせることができたとしても、
それはそれで迷惑になるかもしれない。
そんなもやもやを、部下に打ち明けます。
「何とかならないかね」
 
打ち明けられた部下は、九州電力広報の大島さんという男性。
そのときのことを「使命感のようなものにかられました」と語ります。
 
川合さんのもどかしい気持ちを感じ取った大島さんは、
すぐにその桜を見に行きました。
道路工事という、大きな事業を止めることができるのかと困惑しつつも・・・。
 
一枚の紙から、桜を想う男たちの不思議なリレーが始まっていました・・・。
 
 
数日後。
土居さんは、新聞に自分の歌が大きく報じられているのを見て驚きます。
 
実は大島さんは、桜を見たあと、知り合いの西日本新聞の記者に電話をかけていたのでした。
電話をかけた相手は、社会部記者の松永さんという男性。
 
松永さんはそのときのことを話します。
「大島さんからの電話は、謎をかけたようなものだったんですよ。
“松永さん、桧原に行くと、今面白い光景があるんですよ”って」
 
大島さんは、直接訴えることをせず、松永さんのジャーナリスト魂にかけたのでした・・・。
 
当然、すぐに向かった松永さんは、桜の木の幹に貼られた紙に気づきました。
「桜を残してくれという陳情なんだけど、なかなか風流な陳情で、これはものになるぞ、と思いました」
 
ここに来て、桜を想う男たちのリレーは急速に発展。
新聞に載ったことで、想いは世論となり、桧原桜に花を惜しむ歌や言葉が次々寄せられたのです。
 
しかし・・・
工事が中止される動きはありませんでした。
桜はもうじき伐採されようとしていました・・・・。
 
 
そんな中。
桜の記事が載った日、たった一人、特別な思いにかられている男性がいました。
その人こそ、進藤市長。
土居さんが歌を詠んだ相手でした。
 
当時の回顧録に、そのときの気持ちが書かれています。
『行政が進める拡張工事の公益性は知りつつも、せっかくつぼみを膨らませたつぼみの老樹に“せめてつい(最後)の開花を許してくれ”と訴えています。
風流心とはまさにこのことです。
私は担当者に言いました。“なんとか花の命を延ばすことはできないだろうか”と』
 
市長も一人の人間として、心を動かされていたのです。
 
そして、多くの人たちが桜を惜しみ、木につけた歌の中には、
 
『桜花惜しむ 大和心のうるわしや
ともに匂わん 花の心は
詠み人 香瑞麻(かずま)』
・・・進藤一馬市長の歌がありました。
 
市長は、土居さんへの返歌を、密かに木に下げさせていたのでした。
 
『市長である私がどう思っても、どうにもならないことが行政にはたくさんある。
それでもあなたの気持ちは確かに受け止めた、という思いを歌に託しました』
と進藤市長。
 
 
そんな想いの中、工事が再開されようとしていました。
しかし進藤市長はギリギリで会議を開き、
工事を一端中断し、桜が終わるまで延期することを
工事責任者に要請しました。
 
そう言われた工事担当の石井さんは、内心困っていました。
自分の責任は工事をきっちりやることだったので・・・。
 
 
そしてそれでも、工事が中止されたわけではありません。
桜は結局どうなってしまうのか・・・。
花を思う心のリレーの運命の結末は・・・・・・?
 
 
 
2003年、4月。
土居さんとともに、桧原桜のある場所へ。
道路はすっかり広くなっています・・・。
 
そしてそこには。
 
見上げると満開の桧原桜の姿・・・・・・・ヽ(´▽`)/
 
 
心のリレーは行政を動かしたのです。
桜の側に道路を広げる予定を、
石井さんの英断で、池を埋め立てる方向で工事が進められました。
池側にあった桜も移され、小さな公園も作られていました。
 
そこには、花を想う風流な心が息づいていました・・・。
 
 
土居さんは嬉しそうに言います。
「今年も綺麗に咲きました。今年でもう20年になるんですね・・・。
でも振り返ると不思議で仕方ないです。
もう次から次に、隠れた花守りが来ていただいて・・・
皆がリレーしたから、この桜が助かったんですよ・・・。
子供たちやご年配の方たちが大勢おいでになるし、
みなさんに喜んでいただいて、この桜も果報者でしょう」
 
 
互いに名も知らない者同士のリレー。
それが途絶えていたら、奇跡は起こらなかったのです。
 
川合さんはしみじみと、
「改めて日本人の素晴らしさを見直しましたよ・・本当によかった」
 
「ああ、あの人がいてよかったな。
あの人(進藤市長)がいて受け止めてくれてよかったな・・・。
よくつながったな、と・・・」と大島さん。
 
松永さんも懐かしそうに
「桧原桜は・・・かけがえのない人間の縁をもたらしてくれた・・・
そういうストーリーだと、今しみじみ思ってます」
 
そして花守りの一人、進藤市長は2004年病気のため他界。
しかしその心は生きつづけています。
 
桧原桜の横には、土居さんと進藤市長の歌が石碑として刻まれていました。
“永遠に匂わん 花の心・・・”
桧原桜はこれからも永遠に咲き続ける・・・・・。
 
 
その後、数年たって
当時は顔も知らなかった花守りたちは顔を合わせ、
『花守り会』を結成。
現在は『福岡さくらの会』となっていて、
毎年桜の時期に集まっているそうです。
 
今は亡き進藤市長について、土居さんには忘れられない思い出があるといいます。
 
市長宛に、桧原桜の名で年賀状を送った土居さん。
“新年おめでとうございます。春爛漫が待ち遠うございます。
花を活かしての道です。ありがたく存じます。
今年の春が楽しみでございます”と。
 
すると市長は多忙の中合間をぬって、わざわざ雨の中
桧原桜を見に来てくれました。
 
そして市長引退後、名誉市民に推薦され、何か記念品をと聞かれたとき、
こう言ったそうです。
「気持ちはいただく・・・。
それより一本でも二本でも公園に桜を植えてほしい」
 
 
桜の話は小学校の道徳副読本にも載せられました。
花を想う心は永遠に・・・・・・。
 
 
 
 
 
いい話ですよね。・゜・(ノ∀`)・゜・。
初めてこの話を観た時も感動しました。
 
このお話の中心になっているのはおじさんたちで、
そこがまた非常に素晴らしいと思います。
そしておじさんたちだからこそ、力があって、その力で桜を守ったというのも素敵でした。
 
この話を観た頃はまだブログを書いてなかったので、
藍に「ぜひこの話を書いてくれ」とビデオを渡されました。
藍は保存版にしていたようです。
今回改めて観ましたが、また大感動でした・・・。
 
今も桧原桜は咲いているのでしょうか・・・。
ずっとずっと咲き続けてほしいと思います。
posted by 水沢桃子 at 23:39 | Comment(2) | TrackBack(0) | 「アンビリバボー」感想

2009年05月21日

「アンビリバボー」学園ドラマのような実話

これはバスケットボールのコーチと生徒の物語。
 
アメリカカリフォルニア州、リッチモンド高校。
1999年当時、この学校は荒れ果てていました。
無事に卒業できる生徒は50%。
刑務所に入る確率は、大学進学率の80倍。
 
そんな中、ケン・カーターという男性が、バスケット部のコーチに就任しました。
彼はリッチモンド高で名選手だった人でした。
 
練習を始める前に、カーターは生徒たちと契約を結びたいと言い出します。
その内容はバスケットとは全く関係ないものばかりでした。
 
「授業は必ず出席すること」
「チームの平均偏差値を並み以上に上げること」
「校外試合にはシャツとネクタイを着用すること」
「そしてこの契約書には親の署名ももらうこと」
 
当然生徒たちは反発しました。
しかしいうことを聞かない生徒は容赦なく追い出すカーター。
 
残った生徒たちと練習を始めるも、ボールを全く使わずに、
延々走らせて腕立て伏せをやらせます。
 
そしてそのままの状態で試合に出ることになる選手たち。
 
・・・しかし、基礎体力をつけた選手たちは強くなっていて、
なんと試合に14連勝!
新聞にも取り上げられ、選手たちは期待されます。
 
 
しかしある日突然体育館は閉鎖しました。
図書館へ呼ばれた彼らを待ち受けていたカーター。
 
なんと、彼らの試験の成績が悪かったので、
「成績を上げるまで練習をしない。
試合は辞退する」
そしてその間勉強すると宣言したのです。
 
チームのエースだったマービンという生徒はそれにキレました。
彼は授業にも出て試験にも合格したのに、とばっちりを受ける羽目になったからです。
 
しかしチームの連帯責任だというカーター。
結局マービンは怒ってチームをやめてしまいました・・・。
 
 
この問題は新聞にも取り上げられ、周りから非難されました。
しかし周りの教師たちに呼ばれ、閉鎖を解くように言われても断固拒否するカーター・・。
 
教師たちはカーターに言います。
「彼らの現実を考えてあげないと。
この学校を出た彼らに、どんな未来が待っているかあなたにはわかっているでしょ?
彼らはバスケットをやっている時が、人生で一番輝ける時なんです。
それを奪う権利は誰にもないはずです・・・」
 
生徒の親も学校に来て文句を言います。
「あいつからバスケットを取ったら何をしでかすかわからないぞ」
「あなたはうちの子からプロになるチャンスを奪ったんですよ!」
 
しかしそんな教師や親に、カーターはこの学校の状況を突きつけました。
 
この学校の生徒たちのほとんどが、無事に卒業できないという現実。
30年前自分自身も通っていた   ・・
そのときのチームメイトたちが今どうなっているか・・。
 
そして、力説しました。
そんな現実を変えたいんです。
私は生徒たちに規律を教え込んだ。
彼らにはそれが必要だと思ったからです。
なのに今、生徒たちに私と交わした簡単なルールさえ守らなくてもいいといえば、彼らはいずれ法を犯すようになる。
私はあの子達を刑務所に入れたくない!
 
・・・彼らにとってバスケットをやっているときが、人生で一番輝けるときだと言う人がいます。
しかし彼らの人生はこれからも続く。
私はその全てを輝くものにしたいのです!」
 
そのセリフに、皆は沈黙しました・・・。
外で聞いていた生徒たちも   
 
 
そして・・・・・。
生徒たちは、自発的に勉強を開始しました。
初めて自分たちの意思でやる気になったのです。
 
毎日の勉強会。
できる生徒ができない生徒に教えるというやり方で、いつの間にか連帯感が生まれていました。
 
そしてついに、全員が目標以上の成績をあげることができたのでした・・・。
 
 
閉鎖が解かれた体育館で練習を開始するカーターと生徒たち。
試合では連帯感のおかげなのか、勝ち続けていきます。
 
と、チームをやめてしまったマービンという、成績がよかった生徒が、
再びチームに入れて欲しい、と言ってきました。
しかしカーターはすげなく断り、
どうしてもというなら、「腕立て2500回、ダッシュ1000本を5日以内でクリア」という条件を突きつけます。
それは不可能な条件でした   ・・が、マービンはやり始めます。
 
しかし5日後、クリアできなかったマービンに、「よく頑張った」とねぎらいの言葉はかけたものの、「チームには戻せない」と冷たく言い放つカーター。
 
そこへ   
チームの他の生徒たちが、立ち去ろうとするカーターを呼び止め、
「俺たちがかわりにやります」
「俺たちはチームだ。苦しみも勝利も共有する」
そして腕立てを始めたのです・・・。
 
その輪は広がり、チームの仲間たちが次々にやりだしたのを見たカーターはそっと微笑みました。
 
 
そしてマービンを加え、試合に出た彼らは勝利をつかみ、州大会へ出場。
それはものすごい快挙でした・・・。
 
州大会の初戦で負けてしまった彼らに、カーターは言いました。
「胸を張れ。君たちは試合には負けた。しかしそれ以上に大きなものを手に入れたはずだ
 
そしてチームのみんなの肩を叩くと、
「君たちは私の誇りだ」と微笑んだのです。
それは鬼コーチが、初めて彼らを認めた言葉でした・・・。
 
 
そして彼らの姿は、将来をあきらめていた町の人たちの気持ちまで変えたのです。
 
外へ出てきた選手たちに拍手をおくる町の人々・・・。
そしてカーターをたたえる声・・・。
 
彼らが手に入れた大きなものとは
自分に誇りを持った人の前に見える、輝ける未来   
 
 
その後彼らは、それぞれ大学へ進学。
なんと、チーム全員が大学に合格したのでした・・・。
 
カーターは語ります。
「私の事をよく思わない生徒がいるのも事実ですが、私はそれでもかまいません。
10年後、彼らが成功を手にすることが、私の望みなのです」
 
 
そして現在。
カーターはあの頃の生徒たちと面会を果たしました。
彼らはそれぞれ立派に夢を語って、今もいきいきと輝いています・・・。
 
そしてカーター氏にも夢があるそうです。
それは学校を設立すること。
 
「小中高一貫教育で、トップレベルの学生を育てます。
週六回一日十二時間勉強させるので、父兄たちの負担は減りますが、
土曜日には父兄も学校に来て活動に参加してもらいます」
と、ニッコリ。
鬼コーチはやっぱり今も鬼コーチのままのようです・・・。
 
 
 
 
まさにスパルタ教官という感じでした(;´∇` )
でもやればできるというのを本当に実践しているというのは、すごいです。
生徒たちの未来のために厳しく指導する・・・。
先生というのはそうあってほしいですね。
・・・生徒としてはかなり厳しいですけど。
 
アンビリで最初に紹介されたとおり、まさに“学園ドラマのような実話”でした。
こういう話は感動してしまいます。・゜・(ノ∀`)・゜・。

*ちなみにここで言う現在とは放映時のことです。
posted by 水沢桃子 at 22:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 「アンビリバボー」感想

2009年06月07日

「アンビリバボー」共に甲子園へ・・・友情の奇跡

今回は『ある高校球児が起こした奇跡』のお話です。(現在となっているのは放映時のことです)
 
2003年山口県の中学生野球部『下関マリナーズ』、
チームの大黒柱上本健太と、村田将は親友でした。(二人とも左利き)
健太は勝気、将は優しい性格で、それぞれ高校に入っても野球部へ入って甲子園を目指そうと誓い合います。
 
2005年、健太は広島の名門、広陵高校へ、将は地元の水産高校へ進学。
二人とも野球部に入りました。
 
ところが・・・
2006年2月13日・・・健太に電話が入ります。
なんと将が倒れたというのです。
脳梗塞で、かなり危ない状況だと・・・。
 
そのあと、生命維持に必要な部分のみを残し、他の部分の脳を摘出。
何とか命だけは取り留めました。
 
しかし目を覚まさず、広島からかけつけた健太の言葉にも反応しません。
 
そして同じくかけつけた中学時代の野球部コーチから、最近の調子について尋ねられた健太は言葉をにごし、広島へと帰りました。
 
健太はその頃、名門校の野球部で苦しんでいたのです。
補欠に入ることも難しく、膝を故障していたのですが、それを誰にも言えないでいました・・・。
 
 
一方、将は手術の20日後に意識を回復。
しかし・・・知的レベルの後遺症はなかったものの、左半分がマヒしてしまいました。
左は彼の利き腕です・・・。
そして右脳は左半身の機能を司っていますが、右脳のほとんどを摘出してしまったため、回復は絶望的でした。
両方のバランスが取れないと、立ち上がることすら難しいのです。
いきなり車椅子の生活を送ることになってしまった将。
 
2006年7月。退院した彼に笑顔はありませんでした。
「いっそ死んだほうがよかった・・・」
 
 
一方、広島の健太は野球を頑張っていました。
怪我も少しずつ治り、野球への情熱を取り戻しつつありました。
朝の5時から1人で練習し、力をつけ、練習試合でも起用されるようになったのです。
 
そして春の選抜のための重要な中国大会で、もう1人のピッチャーとしてベンチ入りが決定。
 
そのことをすぐに将に電話で伝えました。
高校入学以来、進学校で勉強と野球の両立が忙しい健太からは、電話がかかってきたことはなかったため、将は驚きます。
 
「中国大会に出るから見に来いよ。
一緒に甲子園行くって約束しただろ。
俺はお前と行きたいんだ」
 
 
実は健太が野球を頑張っていたのは、この約束を守るためでした。
8ヶ月前、倒れた将のところへかけつけたとき、広島へ戻ろうとする健太にコーチが言ったのです。
 
「もう将は野球できないだろうな。あいつのためにお前ができることはなんだ?よく考えてみろ」
 
将が野球できない分、お前が将の分まで頑張れ・・・
そういわれて、このままではいけないと思った健太。
 
健太が必死に努力したのは、レギュラーになって甲子園へ行き、病気に苦しむ将を連れて行きたいからだったのです・・・。
 
 
2006年10月27日。中国大会開催。
将はスタンドで応援してくれ、健太もマウンドに立ち活躍しました。
そして見事に広陵高校は甲子園出場を果たします。
 
将が、試合後の健太に会いに行くと、チームメイトはみんな将のことを知っていました。
「そのおかげで気合い入った」と言われる将。
健太が、「一緒に甲子園行こうな」と言うと、将は「うん」と笑いました。
 
しかし健太には、気がかりなことがありました。
それは、今でも将が、一緒に甲子園に行きたいと思っているのかどうか・・。
野球をできない苦しみを味わわせていることになってしまうんじゃないか。
将は優しい性格だから、傷ついても隠してしまうんじゃないか・・・。
 
 
そして2007年3月。選抜開催。一回戦。
千葉の成田高との試合。
試合は一対一の延長戦に入りました。
 
広陵はツーアウト三塁のチャンス。12回裏。
そこでバッターボックスに立ったのは・・・健太でした。
代走として、出場後初めて打席に立ったのです。
 
と、そのとき。
将の声援が健太の耳に届きました。
 
将は声を限りに叫び、一生懸命健太に声援を送っています。
そして・・・・
なんと自分の足で立ったのです。
 
 
健太が甲子園出場を決めたときから、将に変化が起こっていました。
自分の足で立って歩きたい。
健太は約束を守ってくれた。僕もあきらめたくないんだ」
 
それは右脳の6割を摘出した状態では不可能と思われることでした。
しかしそれでも、将は必死にリハビリを続け・・・
左足が動くようになり、そのあと数ヶ月で歩くことができるようになったのです。
 
このことに関して、医師に聞いてみると
右脳を摘出したのに左半身が動くというのは、
左脳と左半身が結びつくネットワークができたとしか考えられない・・・。
そしてそれは、確率的に言えば「奇跡」だそうです。
 
 
そんな将の姿を見た健太に勇気が湧き上がります。
対するのはプロに入団決定の投手。
その球に必死にくらいつき、ついに
ツーストライク、スリーボール     健太は打ちました!
必死に走り、滑り込んで・・・セーフ!
 
それが勝利の一点となったのですΣ(゜∀゜)
なんという奇跡的な試合・・・!!
 
それは健太だけの力ではなく、共に甲子園に来た親友が力を貸してくれたおかげ。
のちに健太くん(現在の彼)は、そのときのことを
「将が立ってて、僕に頑張れって声かけてくれて・・・胸が熱くなった・・・。
ホント嬉しかった」と語っていました。
 
 
そのあと広陵はベスト8まで進出。
夏の甲子園で準優勝に輝きました。
もちろん、夏にも応援する将の姿がありました。
 
将くん(現在の彼)もそのときのことを
「甲子園のグラウンドにいる健太を見た時・・めっちゃ喜びました。感動しました」と語り、
「頑張らないといけないなと思ってます」と結びました。
 
 
そのあとも彼は努力し、左足をかなり自由に動かせるようになりました。
しかも普通の人と変わらない速さで歩くほどまで回復・・・。
 
将くんのお母さんは、「やっぱり仲間ってすごいですね」と声を詰まらせていました。
将くんは「健太は大切な・・・かけがえのない友達」と照れ笑い。
 
 
あの試合で、本来は控え選手だった健太がバッターに建ったのは、監督が「気持ちの強い彼ならやってくれる」と信じたからでした。
そして将は、健太を応援するために、毎日一日三キロ歩いていたそうです。
 
現在健太くんは関西の大学で野球を続けています。
 
そして二人は久しぶりに下関マリナーズのグラウンドで再会。
将くんは、全く動かなかった左腕も動かせるようになり、握力も少しずつ戻ってきているそうです。
 
二人は懐かしのグラウンドで、仲良くキャッチボールを始めました。
将くんは、今は右手でボールを拾い、投げていますが
いつか左でボールを投げられる日が来るまで
親友でもあり、ライバルでもある二人の絆は続いていくのです・・・・。
 
 
 
 
感動しました。・゜・(ノ∀`)・゜・。
やっぱりスポーツは素晴らしい!!
そして友情も素晴らしい・・・!!
二人ともそれぞれで、自分にできる努力を精一杯頑張った結果が奇跡となったんですね。
頑張れば必ず奇跡が起こせる訳ではないだけに、
奇跡が起こったことがすごく素敵だと思います。
まさに感動のアンビリバボーなお話でした(*^▽^*)
posted by 水沢桃子 at 19:12 | Comment(2) | TrackBack(0) | 「アンビリバボー」感想

2009年07月16日

「アンビリバボー」トライアスロンがくれた家族の絆

アンビリバボー、今回はとある一家族に起こった奇跡の物語・・・。
 
夫・岡田登史彦(としひこ)さんと妻・由利子さんはうまくいっていませんでした。
一家は海外赴任が長く、子供たちは日本語が上手く話せない状態で帰国。
長男・卓也くんはいじめにあい、不良グループに入り、
次男・正至(ただし)くんは15歳で家出、暴走族に入り、何回も警察沙汰を起こしていました。
(長女・万葵(まき)さんについては描写なし)
 
しかしそんな子供たちのことを、由利子さんは夫に強く話せない事情がありました。
海外から帰国後、登史彦さんは由利子さんの親が経営する京都の会社の社長に就任。
経営状態は思わしくなく、仕事に忙殺され、家族のいる東京にもなかなか帰れない状態だったからです。
 
どうすることもできないすれ違いの日々。
夫婦の絆は崩壊寸前の危機。
息子たちとも上手くいかず、家族はバラバラ・・・。
 
そんなある日、掃除中に夫の部屋でトライアスロンの雑誌を見つけた由利子さん。
夫の唯一の趣味がマラソンだとは知っていたが、トライアスロンに興味を持っていたとは知らなかった。
 
そこで由利子さんはある行動を起こします。
 
それは何かというと・・・
いきなりトライアスロンに挑戦することを夫に告げたのですΣ(゜Д゜;)
 
そこでそう来るとは・・・・!
なんてポジティブな人なんでしょう・・!
 
しかし由利子さんは自転車に乗れなかったため、まずは自転車サークルに入会。
競技用の自転車は初心者には難しかったけれど、必死に練習。
 
さらに、夫と共にマラソンを始め、
同じ趣味を持つことで夫と会話が弾むようになり、夫婦の危機は乗り越えつつありました。
 
そして由利子さんはトライアスロンの大会で完走し、年代別の部門で優勝を飾ります・・・。
 
ところがそんなある日。
2001年7月、由利子さんは病院に運ばれました。
山道で練習中に、坂道でカーブを曲がりきれずにガードレールに激突。
全身の骨折にくわえ、すごいスピードで頭をひねったために脳の中枢にある細かい神経がねじ切れる“びまん性軸索損傷”という状態。
 
意識が回復するかわからない、と医師に言われ、登史彦さんは、これで彼女の人生は終わったのかな・・と思ったそうです。
しかし事故から7日後由利子さんは目覚めました。
 
喜んだものの、医師から「右手と右足の麻痺は一生回復しないでしょう」と告げられました・・・。
意識が回復しただけで奇跡的だと・・・。
 
それは一生介護が必要だということを意味していました。
 
 
しかし事故から二週間後、由利子さんは次のレースに出ようと、リハビリを開始。
事故に遭ったときの記憶がなく、自分の状況を把握できていなかったのです。
そう、かつてのような、栄光のゴールを切ることは二度とない、という辛い現実を・・・。
 
そして一方、登史彦さんも努力を続けていました。
事故前と同じように、京都の会社に出勤するようにしたのです。
 
目が覚めた由利子さんから「次のレース出れるよね」と聞かれた登史彦さんは、「当たり前じゃないか」と答えていました。
平静を装い、いつもどおりに振舞わなければ由利子さんは感づいてしまうかもしれない・・・。
 
そんなわけで、登史彦さんは、京都の会社に出勤しながら、片道四時間かけて毎日東京の病院と往復していたのです。
やがて、そんな父の姿を見ていた息子も協力を申し出てくれるようになり・・・
バラバラだった家族が、少しずつ歩み寄り始めました。
 
 
しかし自分がもう走れないと言うことを、由利子さんはついに知ってしまいます。
そのとき、由利子さんは・・・。
 
「・・・私、自転車全然乗れなかったのね。でもトライアスロンで優勝までできたわ。頑張ればきっと走れるようになる」
 
医師から不可能を告げられても、前向きな由利子さん・・・。
すごい人です・・・・。・゜・(ノД`)・゜・。
 
そして登史彦さんは、そんな由利子さんのために、彼女を受け入れてくれる病院を捜し求めました。
 
そして・・・過酷なリハビリが始まりました。
あきらめない由利子さんと、支える家族。
 
そんな日々が四ヶ月。
ついに由利子さんは車椅子から立ち上がり、よろけながらも自分の足で歩くことができたのでした・・・。
 
そしてまた、由利子さんが入院している間に、息子たちは協力するようになっていて、家族の絆が復活していました。
 
 
退院後、経過を見て、再び走り始める登史彦さんと由利子さん。
走り終わって、登史彦さんに「大丈夫か?」と聞かれた由利子さんは、微笑みながら言いました。
 
「私やっとわかったの。今まで私ずっとレースに出たい、もう一度走りたいって思ってリハビリ頑張ってきたけど、そうじゃなかったわ。
本当はこうやって、あなたと一緒にもう一度走りたかったんだわ」
 
かつてトライアスロンを通じて手に入れた夫婦の絆をもう一度取り戻したい・・・。
無意識のうちに、そう願っていたのでした。
 
 
そして事故から五年、2006年3月25日。
伊豆大島ふれ愛ハートフルマラソン大会に、
登史彦さんと由利子さんは出場。
 
しかし・・・。
途中までは順調でしたが・・・やがて由利子さんの右足に疲労がたまりはじめます。
28キロを過ぎた頃、右足からは靴が破け、出血していました・・・。
それでも「大丈夫、まだ走れる」決してやめようとしない由利子さん。
 
しかしレース開始から10時間と言う制限時間を過ぎてしまい、ゼッケンを返すことになってしまいました。
もしかしたら、ゴールも撤去されているかもしれない・・・。
 
それでも由利子さんは、「いいじゃない、ゴールなんかなくたって。私はあなたと一緒に最後まで走りたいの」
 
やがて日が暮れる中、二人は自分たちのペースで走り続けました。
と、その時遠くに見えたのは・・・。
 
「頑張れー!」という声援と、大会のゴールテープ・・・・。
 
大会運営スタッフは、撤去時間が過ぎたにも関わらず、二人のために待っていてくれたのでした・・・。 
 
 
事故を振り返って・・・。
由利子さんは、「あの事故がなかったら、それぞれバラバラにいったままだったろうなと思います。
あの事故で、“家族”という感じになりました」
 
登史彦さんも「彼女のありがたみを感じなかっただろうし、やっぱり家族だな、と思わなかっただろうし・・・。こういう大きな事故は、身につまされて、いろんなことを考えるチャンスだったんだなあと思っています」と語りました。
 
 
そして2008年、6月、久しぶりに家族全員が集まりました。
それぞれの道を歩む子供たちを、優しく見守る由利子さん。
そして現在も毎日、登史彦さんとともにジョギングや水泳でリハビリを続けており、身体は日常生活には支障ないほどに回復しているそうです。
 
そんな母親を、三人の子供たちは感心しながら見つめているようです・・・。
そしてまた、長女の万葵さんいわく「恥ずかしくなるくらい仲がいい」
登史彦さんと由利子さん。
 
事故後、外出時、二人はいつも手をつないでいて、まるで新婚カップルのようだといいます。
 
由利子さんが経験した、人生を変える大きな事故・・・
それは図らずも、家族の、そして夫婦の絆を取り戻す奇跡のきっかけとなったのでした・・・。
 
二人はそのあとも伊豆大島ふれ愛ハートフルマラソンに出場。
今度は9時間30分台で完走!
 
由利子さんは、まだあと十年は頑張って走れる、と言い、「走っているときは孤独だけど、話さなくてもそばに主人がいるだけで、サポートしてもらっています」と微笑みました。
 
 
 
 
素敵な夫婦ですねえ(*^▽^*)
前向きで頑張り屋で明るい由利子さんと、優しく支える登史彦さん。
事故はものすごく大変だっただろうと思うのに、ひたむきな努力で乗り越えるたくましさが素晴らしいです。
何かがあって、バラバラだったものが再びひとつにまとまる・・・
それは本当にすごい奇跡です。
 
そしてやっぱり・・・スポーツって、すごいなあと改めて感じました。
posted by 水沢桃子 at 21:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 「アンビリバボー」感想

2009年09月12日

「アンビリバボー」48年目の約束

今回のアンビリバボーは、『純愛』です(*^▽^*)
 
ときは1959年。
イングランド北東のサンダーランドのレニーロード孤児院。
 
5歳のとき母を亡くしたアランはここで暮らしていましたが、孤児院の子供たちとなじめずいつも一人ぼっちでした。
そして、アランが7歳のとき、アイリーンという9歳の女の子がやってきました。
 
初めて会ったとき、アランとアイリーンはお互い、どこかで会ったことがあるような懐かしさを感じます。
アイリーンもアランの境遇と似ていて、天涯孤独でした。
 
慣れない孤児院生活で、アイリーンが困ったことがあるといつも助けてあげるアラン。
その優しさにアイリーンの心は癒され、お互いになくてはならない存在になっていったのです。
 
孤児院を抜け出しては二人で遊ぶ日々・・・。
それは孤独だった二人にとって、久しぶりに訪れた幸福な時間でした。
 
ところが、その頃孤児院では、
男女交際を禁じるという規則がありました。
その規則のために、二人は苦しめられます。
 
それでも二人の心を引き裂くことはできませんでした。
禁じられても、二人は孤児院を抜け出し、二人で過ごしていたのです。
 
そしてある日アランは、二人で過ごしているとき、アイリーンにプロポーズしました。
「僕と結婚してくれる?」
そっと花を差し出し言うアランに、アイリーンも応えます。
「いいわ、してあげる」
永遠の愛を誓い、ファーストキス・・・。
 
 
しかし、大人たちは、二人を引き離すために行動を起こしました。
アイリーンが学校に行っている間に、アランを別の孤児院に移すことにしたのです。
 
帰宅後、アランがいないことに気づいたアイリーンが尋ねると、
アランは里親に引き取られたと告げられます。
自分にさよならも言わずに去っていったことが信じられないアイリーンですが、
新しい家族と幸せになると聞かされ、何も言えませんでした。
 
しかしアランは、遠くの孤児院に移されていました。
それでもアイリーンへの想いが募り、何度も脱走しようとしました。
 
そんなことをくり返すうち、ついにアランは、問題児ばかりを集めた施設に送り込まれることになります。
 
そこは、少年たちを矯正するために、厳しい労働や体罰が行われている場所で、
脱走を防ぐために、刑務所並みの厳重な警備がされていました。
 
そんな中でも、アランの心は変わりませんでした。
ただアイリーンに会いたいがために、60キロの道のりをひたすら歩き続け・・・
寒さの中、何も食べずに三日間・・・ついにサンダーランドへたどり着きます。
 
しかしアイリーンに会う前に捕まり、連れ戻されたアランは、
脱走不可能な独房に移されてしまったのでした・・・。
 
一方、アイリーンはそんなことになっているとは知らず、アランは里親のもとで暮らしていると信じ、淋しさに必死で耐えていました。
 
 
そして時は過ぎ・・・15歳になったアラン。
施設を卒業したアランは、まっさきにアイリーンのところへ向かいました。
しかし、二年前に施設を卒業したアイリーンの行方はわからなくなっていたのです・・・。
 
 
一方アイリーンは、アランをあきらめ、結婚しましたが、そのあと離婚。
やはりあのとき別れたままのアランを忘れられずにいました。
 
 
さらに時は流れ・・・。
1998年、子供も独立したアイリーンは48歳。
 
ジムで友人に声をかけられ、アイリーンが昔孤児院にいたということを聞き、
自分の連れも孤児院にいたのよ、と1人の男性を連れてきました。
 
その男性がアランでした。
 
二人は一目で互いが誰であるか、わかりました。
 
しかし、紹介して来た友人(女性)は、アランが好きで、
アイリーンに彼氏がいるように振る舞い、自分とアランも付き合っていると嘘をついたのです。
 
アイリーンもアランも、それぞれ相手に恋人がいると思い込み、ショックを受けます。
本当のところ、アイリーンに彼氏はおらず、アランとその女性も付き合ってはいませんでした。
 
しかしアランは、今でもアイリーンを想っていましたが、アイリーンが幸せならばそれでいいとあきらめることにします。
そして六年間の長期の海外の仕事に行くアラン。
 
 
しかし六年後・・・アランの気持ちに変化はありませんでした。
もう一度アイリーンに会いたい・・・。
これで最後にしようと思いながら、彼女の働くスポーツクラブへ行きました。
 
ところがアイリーンはそこを辞めていて、どこへ行ったのかもわからなくなっていました。
 
もうアイリーンには会えないのかも知れない・・・。
そう思って歩いていると、アイリーンの姿を目撃。
しかし、駆け寄ろうとすると、アイリーンの前に1人の男性が現れ・・・
アランは、あきらめることに決めました。
 
ところが、そのとき。
アイリーンの方もアランに気づき、去っていこうとするアランを追いかけたのです。
 
孤児院で別れてから45年・・・
ようやく二人は互いの想いを告白しました。
 
アイリーンが、アランが里親のところで幸せになったと思って、自分のことを忘れたと思って、あきらめようとしてきたことを告げると、
アランは、ずっとアイリーンを捜しつづけてきたことを告げます。
 
「どんな女性と出会っても愛せなかった・・・。
僕の心には、アイリーン、いつも君がいたから・・・」
「アラン・・・ずっと会いたかった・・」
 
 
そのあと二人は、昔プロポーズした、懐かしい場所へ。
しばし思いに浸ってから、
アランはアイリーンにそっと花を差し出しました。
それはあのとき、アイリーンに渡したのと同じ、青いツリガネスイセン。
 
「僕と結婚してくれる?」
「・・・いいわ、してあげる」
 
あのときと同じシチュエーションで、今度こそ本当に結ばれる約束・・・。
 
 
そして、2007年5月12日。
二人は結婚式を挙げました。
最初に結婚を誓ったあの日から、48年目のウェディング。
 
アイリーンの子供たちも、二人の結婚を祝福してくれ、花嫁の介添え役は娘と孫がつとめました。
そんな二人の結婚式の場所には、青いツリガネスイセンが咲き乱れていました・・・。
 
 
アランさん(56歳)は、
昔の思い出で残っているのは、青いツリガネスイセンだと言います。
「多分一番幸せな瞬間の記憶だからでしょう」と笑いました。
 
そしてアイリーンさん(58歳)も、
「二人でいるとあの頃に戻ったみたい。
結婚できて幸せです」と微笑みました。
 
現在の二人も、変わらず幸せだそうです・・・・。
 
 
 
 
というお話。
現在というのは、放映時のことです。
 
はあああ〜〜素敵なお話でした!!V(≧∇≦)v
 
というか、なんというか、
いつになったら二人は幸せになれるの!?
と、非常にヤキモキしながら観ていました。
 
ドラマか映画か小説か?
というくらい、すれ違い続けて、それでも最後に出逢えて、結ばれた。
こういうことってあるんですね・・・。
 
でも、ただ一人の女の子に会いたくて脱走するいたいけな少年を、
非行少年の孤児院に入れたり独房に押し込んだりするのってあまりにもひどすぎます(つД`)
アランの性格がゆがまなかったのも、奇跡だなあと・・・
アイリーンへの想いが支えたのだろうなと思うと、ますますジーンとします。
 
こういう純愛の話を聞くのが本当に好きです。
とってもいいお話でした(*^▽^*)
posted by 水沢桃子 at 15:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 「アンビリバボー」感想

2009年10月07日

「アンビリバボー」セラピードッグ・ウィリー

1997年、一冊の絵本がアメリカで発売され、数々の賞に輝きました。
その絵本のモデルは、実在する一匹のチワワ・・・。
 
 
1993年ロサンゼルス。
路上で一匹のチワワが見つかります。
虐待か事故かわかりませんが、大怪我を負っていました。
すぐに手術、何とか一命を取り留めた後、
引き取り手が現れるまで病院に預けられることに。
 
その子犬はウィリーと名づけられます。(2歳、オス)
 
しかし一年後。
ウィリーの飼い主や引き取り手は現れず、このままでは保健所に連れて行かれ、安楽死・・・になってしまう運命でした。
 
 
一方、カリフォルニア州ロングビーチに、
デボラ・コーナーという、ペットの毛をカットするグルーミングショップを経営する女性が住んでいました。
経営は順調だったけれど、デボラは完璧主義な性格だったため、いつもストレスを抱えていました。
 
そんなある日、ペットの引き取り手を探してほしいと言う電話がかかってきました。
デボラは、ボランティアで引き取り手のいないペットの新たな飼い主探しをしていたのです。
 
そして依頼されたのが、ウィリーでした。
病院の医師が、保健所に送られる前の最後の望みを託して依頼して来たのです。
 
そんなわけで、ウィリーの引き取り手を探すことになったデボラ。
しかしウィリーは脊髄損傷。
歩くことどころか、立ち上がることさえできず、
また、声帯を傷つけられ、声を出すこともできません。
 
当然ながら、そんなウィリーのもらい手はなかなか現れませんでした。
 
もらい手が現れるまで、ウィリーはデボラが飼うことに。
しかしウィリーは、自力で立ち上がれないため一人で排泄ができず、そのたびにデボラの手を必要としました。
また、何かあっても声が出せないため、どこへ行くにも一緒に連れて行かなくてはなりません。
 
神経質なデボラはストレスをため、ミスを連発。
常にイライラしていました。
 
しかしそんなある日。
前足しか動かせないはずのウィリーが、いつのまにかかごを抜け出して
デボラの足元にすりよってきたのです。
 
その無邪気な顔を見て、デボラは感心しました。
「あなたってすごいわね・・・」
いったいなぜ、前足しか動かせない障害を抱えながら前向きに生きていられるのか。
生きることは楽しいというような、笑顔を振りまきながら・・・。
 
 
そして一ヶ月が経つころ、ショップを訪れる人たちの間で、ウィリーは徐々に評判になっていきました。
「こんな小さな身体で頑張ってるわよね」
「僕も頑張らなきゃって気になるよ」
 
そしてデボラも・・・そんなウィリーの姿を見ていると、元気が出て、
自分の悩みやストレスも乗り越えられる・・そう考えられるようになっていたのです。
 
 
デボラは、ウィリーの飼い主になることを決心しました。
そして、ウィリーを歩かせてやりたい、と思うようになります。
 
医師からは不可能と言われても、色々な病院を替え、針治療などもやりました。
しかし結局ウィリーの足は治りませんでした。
 
「あんなに頑張ったのに治らないなんて、かわいそうなウィリー」
そうつぶやくデボラを、じっと見つめるウィリー。
 
デボラはふっと微笑み、
「・・・そうね、あなたはかわいそうなんかじゃなかったわ」
 
そして、それからもデボラは決してあきらめませんでした。
それこそが、小さなウィリーから学んだことだったから・・・・。
 
 
そんなとき、偶然雑誌の広告で、あるものを見つけたデボラは早速オーダー。
それはK9−CARTという、動物専用の車椅子でした。
 
そして、その車椅子をつけたウィリーは、元気よく走ることができるようになったのです・・・!ヽ(´▽`)/
 
 
障害に負けずけなげに頑張るウィリーの姿は評判になり、
ある出版社から、ウィリーのことを子供たちに知ってもらったらどうかと提案され、1977年、ウィリーを主人公にした絵本が出版されました。
 
デボラも作者のひとりとなったその絵本は、ベストセラーになり、
数々の賞を受賞。
しかしそれだけではありませんでした。
 
絵本や新聞をキッカケに、たびたびテレビに出演するようになったウィリーは、
学校や福祉施設などからの訪問依頼が殺到。
 
 
しかしデボラは、不安でもありました。
ウィリーは、その境遇から、人間に対して不信感があってもおかしくない。
見知らぬ人とうまく接することができるのか。
楽しみにしている人を逆に傷つけてしまうんじゃないか・・・。
 
 
そんな中、2002年、病院を訪問。
ミラクルという女の子のところにウィリーを連れて行きました。
ミラクル(9歳)は、脳の病で、生まれつき手足に障害を抱え、心を閉ざしていたのです。
 
ウィリーをその子にそっと渡すと、ウィリーは全く臆することなく愛情を示し、ミラクルの手をなめ始めました。
ウィリーにとって、過去はなんの障害にもなっていないようです・・・(*´▽`*)
 
最初、ミラクルの反応はありませんでした。
しかし、帰る前にデボラが病室の外で医師と話していると、
ミラクルがウィリーを抱いて笑っているのを目撃!
ウィリーは見事に彼女の心を開いていたのでした・・・。
 
 
これを機に、デボラはウィリーといくつもの施設を訪ねることに。
戦争で重い障害を抱え生きる希望を失っていた人には、前向きに生きる勇気を与え、病気で腰から下の自由を奪われた少年には、新しい人生へ挑戦する意欲を呼び起こしました。
 
そんなウィリーは、障害犬初のセラピードッグとして認定されました。
 
 
そして2004年7月。
絵本が日本で出版されたのを機に、デボラとウィリーは日本の施設を訪れました。
 
ウィリーを見た人たちは、口々にウィリーから元気をもらったと言います。
「病気で悲しくて死ぬことしか考えてなかったんですけど、
あの姿を見て、頑張って生きなくちゃと思った・・・」
ウィリーと触れ合うだけで、みんな癒され、涙を流すのでした・・・。
 
そんなウィリーは、2008年、人間の年齢で80歳を超えても、元気にチョコチョコ走っています。
そして、学校や施設で、人々に勇気を与えているのです。
 
 
デボラさんは、ウィリーのことを愛おしげにこう語りました。
「最初からウィリーは何も変わっていません。
私たち人間が、ウィリーと接することで変わったんです。
生きることって素晴らしいという、シンプルな喜びを、ウィリーが私たちに教えてくれたんです
 
2008年、5月。
再びミラクルさん(15歳)のところに訪れたデボラさんとウィリー。
ミラクルさんとウィリーは、6年間ずっと交流し続けていて、
ミラクルさんは、今ではすっかり活発な少女になっていました。
 
ミラクルさんの父親は、「ウィリーとの出会いで、娘は大きく生まれ変わったと思います。何事にもあきらめてはダメなんだと、ウィリーから本当に多くのことを学ばせてもらいました」と嬉しそうに語ります。
 
そしてミラクルさんは、「将来は歌手か教会のシスターになりたい。
そして同じように障害を持つ人たちに“頑張ればなんだってできる”って希望を与えたいんです。ウィリーと同じようにね」と微笑んでいました。
 
 
 
 
というお話でした!
ウィリーは障害犬になってしまったのに、自分の殻に閉じこもることなく
誰にでも人懐っこく接していて、ほんとにすごいです(*´▽`*)
その無邪気さが、人の心を癒すんでしょうね・・・。
 
動物でも植物でも、人間以外の生き物って心を癒してくれます。
言葉が通じないから心が通じるというか・・・。
 
ウィリーがもし健康な犬だったとしても、やっぱり人の心を癒してくれるわんちゃんだったと思います。
でも、障害をもっていたからこそ、余計に、病気や障害を持つ人たちの心を癒す存在になった・・・そんな気がします。
同じような苦しみを持つからこそ、痛みを分かり合え、頑張っている姿に励まされる・・・。
 
ウィリーは奇跡的な運命で、命が救われました。
そして自分もまた、奇跡を起こしてたくさんの人に希望を与え続けている。
素晴らしい奇跡の連鎖・・。
とてもいいお話でした。・゜・(ノ∀`)・゜・。
ウィリーメチャメチャ可愛かったし・・・。
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2009年12月13日

「アンビリバボー」命を守るエアバック

今回はバイク乗り必見!のアンビリバボーです。
 
主人公は愛知県名古屋市に住む竹内健司という男性。
19歳のときに電気工会社設立。
その傍ら、様々なものを発明する発明家でもありました。
 
1996年、会社設立から18年後。
道を歩いているとき、自分のそばをバイクがスレスレに通り過ぎていくのを見て、ふと思い出します。
若い頃、自分もバイクに乗っていて、大怪我をしたこと。
そして、数年前にも可愛がっていた近所の少年が、バイク事故で命を落としたことを。
 
車と違い、バイクは何のクッションもないまま、事故で身体が路面に叩きつけられます。
竹内さんは、車のようにエアバックという衝撃吸収装置をつけられないかと考え始めました。
 
竹内さんが考えたのは、事故が起こった際、ウェアがふくらみ身体を守るというもの。
そこで通産省(現在の経済産業省)を訪れました。
考案した製品の企画などに違反がないか調べるため。
 
そこで、企画は問題ないが作れないと言われてしまいます。
車のエアバックは火薬でふくらんでいるため、身体にはつけられないと。
 
 
会社へ戻って考えむ竹内さんに、社員があるものを持ってきてくれました。
それはダイビング用の救命胴衣。
栓を抜くと炭酸がガスでふくらむ仕組みです。
「これだ!!」
 
竹内さんの案は、バイクと、ジャケットに内蔵されたエアバックの栓をあらかじめロープでつないでおき、事故で身体がバイクから投げ出された瞬間、ウェアがふくらみ身体を守るというもの。
 
早速実験。
しかし、ふくらみ方がゆっくり過ぎて、身体が地面に叩きつけられるまでに間に合わず。
さらに圧縮された炭酸ガスが、気化した際に温度が冷えウェアが凍りつき、衝撃をやわらげられません。
 
 
そこでボンベメーカーに相談してみたところ、「今まで作れなかったものを素人に作れるわけない。無理です」とはねつけられてしまいました。
 
あきらめかけた竹内さんを、社員がはげまします。
「いつも社長言ってるじゃないですか。“見本のあるものばかり作っていても新しいものなんかできない。未知のものだからこそ挑戦するんだ”」
 
励まされ、再び努力を始める竹内さん。
バイクから倒れては起き上がり、自分が倒れて痛めた場所の記録を取り、
それだけでは限界があるので、大金を払ってある団体から、事故に関するデータを購入。
 
それによると、バイクの死亡事故の9割が頭部・頚椎・胸部の受傷ということが判明。
少しずつ、どのような形状のエアバックにするか・・開発は進んでいきました。
 
 
しかし・・・。
やがて資金が底をついてしまいます。
 
再び悩む竹内さん。
公園のベンチでため息をついていると、通りかかった女性が声をかけてきました。
竹内さんが可愛がっていた、バイク事故で命を落とした少年の母親でした。
彼女は、竹内さんがエアバックを作っていることを聞いていて、
「頑張ってください」と励まします。
 
「一人でも多く事故にあった人を救ってほしいんです。
もう誰も息子と同じ目にはあってほしくないんです・・・」
 
その必死の訴えに、竹内さんは研究を続ける決意をあらたにしました。
 
昼は自分の会社で働き、夜は寝る間も惜しんで研究に没頭。
その熱意はやがて周りの人にも伝わり始めます。
 
ボンベメーカーは、瞬発力のある軽量のボンベを推薦してくれ、
ウレタンメーカーはエアバックに適した、温度の変化に強い素材を見つけてくれました。
 
 
そしてついに1998年エアバック第一号が完成ヽ(´▽`)/
早速通産省に持っていくと、一応認めてもらえました。
あとは、メーカーやショップが置いてくれるかどうか・・・・。
 
 
竹内さんは社員と共に、大手バイクメーカー本社を訪ねました。
エアバックを見た会社の人は、「ぜひうちで扱わせてほしい」と言ってくれ、
契約料として二億を提示してきました。
資金回収には十分すぎる額。
 
喜んで受け入れようとした竹内さんですが    ・・・。
結局断ってしまいました。
 
 
それはなぜか・・・。
会社の人たちが、「自社でバイク商品を買ってくれたお客さんだけに、特典としてこの商品を売ろう」と言い出したからです。
そうすればエアバック目当てにバイクがどんどん売れるかもしれない。
もちろん数が少なくなるけれど、そのかわり高く売れるから結果的に利益が上がる。
プレミア感も出て、商品価値も上がるかもしれない・・・。
 
 
竹内さんは、契約を断ったあと、社員に言いました。
「金じゃないんだよ。俺はこのエアバックで儲けたいんじゃない。
こいつはバイク乗りの命を守るために生まれてきたんだ。
この店だけとか、プレミア感とか、商品価値とかそんなものはいらない。
俺はたくさんの人にこのエアバックを使ってほしいんだ」
 
 
そして竹内さんは、エアバックをエッグパーカーと名づけ、
インターネットと小さなショップで売り出しました。
しかし売り上げは伸びませんでした・・・。
理由は、知名度がないことと、付属品を合わせると、価格が高額になってしまうことが原因でした。
 
しかし実際のところ、価格設定はこれでも相当無理をしていたのです。
価格は6〜7万にしていたのですが、材料費だけでも5〜6万。
わずかな利益だけでは必要経費さえまかなえず、大赤字・・。
このとき借金は一億を超えていました。
 
 
そんなあるとき、頼み込んでイベントに参加させてもらうことができました。
意気揚々と、店内の小さなスペースにエアバックを展示、販売。
・・・しかし、客の興味は華やかなほうに向かい、ブースを訪れるひとはいませんでした・・。
 
竹内さんは、この状態を後悔し始めました。
「俺は間違っていたのか?あのとき二億で売っていたら、借金もせず、何よりバイク乗りたちの役に立てていたのかもしれない・・・」
 
と、そこへ・・。
実際にエアバックで命を救われたというライダーから、感謝の言葉をもらったのです。
「これがなければ、僕死んでいました。
今僕が生きているのはこれのおかげなんです。
ありがとうございます!!」
竹内さんはその言葉に勇気付けられました・・・。
 
そしてさらに、エッグパーカーを見ていたあるお客さんが、
「いい商品だね。こういうものこそ世に出さなければいかんな。
かげながら応援していますよ」と言ってくれたのです。
 
 
竹内さんは再び研究を開始。
たくさんの人に使ってもらえるように、コストダウンの研究を・・。
 
しかし、資金が底をついてしまい、ついにこれ以上研究を続けられなくなってしまいます。
困り果てていた竹内さんに、ある人物が声をかけてきました。
 
そして、「今開発中の商品ができたら、うちの会社で仕入れたい」と
前金を用意していました。
 
「できていない商品のお金をもらうなんてできません」と断ると、
その人は「“よい製品への支援は惜しまない”と社長は申しています」と答えました。
 
なんと、あのときイベント会場で商品を誉めてくれた男性は、
全国展開しているバイクショップを一代で築き上げた伝説の経営者
『梅田モータース』の社長、梅田勉さんだったのです。
 
企業の利益を考えるだけでなく、竹内さんの志に共感し、出資してくれる人がいた・・・。
 
お礼の電話をすると、梅田さんは答えました。
「お礼を言うのは私の方ですよ。
私は今まで商売ひとすじ、たくさんのバイクを売ってきました。
充実した人生でした。
・・・でもひとつだけ、どうしても悔いが残ることがあるんです。
どんなに安全運転を心がけていても、不慮の事故で亡くなってしまう人がいる、ということです。
そんな時あなたを知った。
あなたは私のやるべき仕事をやってくれている。
だから私はあなたを応援したいんです。
頑張れ!あなたはバイク乗りの救世主だ!」
  
竹内さんはその言葉に感動し、再び研究に取り組みます。
 
 
そしてついに    ・・
大幅なコストダウンと軽量化に成功!
ジャケットの内側に仕込むタイプの、着脱可能なバイク用エアバック
『ヒットエアー』が完成。
価格はおよそ3万円。
それまでの半分に抑えられました。
 
多くの利益は望めなかったけれど、そこには
少しでも多くの人に利用してほしいという願いが込められていました。
 
 
そんなある日、スペインからファックスが届きます。
それはスペイン警察からの注文でした。
突然の依頼に驚く竹内さん・・・。
 
このハプニングの陰には、思わぬ優しさが・・。
ある人物が、ヒットエアーを企業に紹介していて、
それが外国の通信社の目に留まり、反響を呼んだのでした。
 
その人物とは    ・・通産省の担当者でした。
竹内さんの懸命な姿を見て、陰で応援してくれていたのでした・・・。
 
 
その後、ブラジルやアメリカなど世界中で反響を呼び、
注文や問い合わせが次々と舞い込むようになりました。
日本でも、11都県の警察が採用しているそうです。
 
多くのライダーを救いたいという夢は実現しつつあります。
しかしそれでも竹内さんは言います。
「もっと普及させたい、という気持ちが年々強くなってきている。
助かった方とかがいたりすると、どんどん使命感のようなものが出てくる」
 
 
現在   ・・。(放映時)
ヒットエアーは普及し始めているものの、開発費の回収までには至っていないそうです。
それでも、日々かけがえのない財産が増えている、と竹内さん。
 
それは実際に助かった人たちやその家族からの、200通を超えるお礼や感謝の手紙・・・。
竹内さんにとっては、何よりも宝物なんだそうです・・・。
 
 
 
 
素晴らしいお話でした。・゜・(ノ∀`)・゜・。
誰かの命を救いたい、という願いは本当に、人間の優しさや素晴らしさを感じさせる気がします。
「金じゃないんだよ。この商品で儲けたいんじゃない。
たくさんの人にこのエアバックを使ってほしいんだ」
このセリフに胸を打たれました・・。
 
そして画期的な新商品が世に出るまでの苦労・・・
大変なんですね(>_<)
周りの人たちの協力も含めて、みんなでたくさんの人の命を守ろうとするその想いが、形になって本当によかったです・・・。
posted by 水沢桃子 at 21:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 「アンビリバボー」感想

2010年05月23日

「アンビリバボー」ビンの中の命

2008年10月。
アメリカに衝撃と感動を与え続けたある舞台の250回記念講演が行われました。
この舞台の背景には、ある女子高生たちの涙と成長の物語があったのです・・・・。


1999年9月。
アメリカカンザス州ユニオンタウン。
人口300人ほどのちいさな田舎町にある高校で、
エリザベスとメーガンという二人の女子高生が、歴史コンテストに出場することを決めました。

全米歴史コンテストとは、小学生〜高校生が歴史研究の成果を競い合う大会。
彼女たちの社会科のノーマン先生が積極的に参加を勧めていたものでした。

そして四人の女子高生がチームを組んで研究を始めました。
エリザベス、メーガン、ジャニス、サブリナ。
四人は先生が集めていた記事に目を通します。

その中で目をとめたのが、映画『シンドラーのリスト』が公開された記事でした。
そこには、シンドラー以外にユダヤ人を助けた人物のことが軽くふれられていました。

オスカー・シンドラーは第二次世界大戦下で、自らの命を賭け1200人ものユダヤ人の命を救った人物。
しかしその記事には、2500人ものユダヤ人の子供の命を助けたポーランドの女性のことが書かれていました。
女性の名前はイレーナ・センドラー。

早速ノーマン先生に聞いてみましたが、
「誇張か印刷ミスかだと思った」と言われます。
「イレーナ・センドラーと言う名前は聞いたことがない。こんなに助けているのに不自然だろう?」

先生が知らないなら真実味はなさそうだ、とあきらめかけた四人に、ノーマン先生は、
まずは調べてみることを勧めました。
「歴史を調べるって言うのはそういうことだよ」


しかし当時普及し始めていたインターネットで調べても、イレーナの情報は出てきませんでした。
そこで四人は、二時間かけて歴史図書館へ向かいました。

書籍や新聞記事だけでなく、戦時中の映像にも目を通した四人は、
そこで浮かれた気分が吹き飛びます。

第二次世界大戦中、ユダヤ人はゲットー(ユダヤ人の強制移住区域)に押し込められ、財産を没収されました。
ナチスドイツは不況の原因をユダヤ人のせいにし、人々の不満の捌け口にしたのです。

ゲットーでの生活は悲惨なものでした。
食料は、大人が必要とする栄養分のわずか十分の一しか与えられません。
伝染病が蔓延し、毎月5000人以上が命を落とす中、まっさきに犠牲となったのは子供たちでした。


「どうしてあんなひどいことができるの」
打ちのめされた四人。

中の1人、エリザベスは「大人になると平気でできるのよ。残酷で自分勝手なことが。
だから大人なんて信用できないのよ」
と苛立ちます。
エリザベスは7歳のときに暴力的な両親に捨てられ、親戚に引き取られていました。
ユダヤ人の子供たちが受けた仕打ちに、よりこたえていたのです。

そんなエリザベスにメーガンは、
「大人がみんな信用できないってわけじゃないわ。イレーナって人は2500人も救ったっていうじゃない」と声をかけました。

しかし実際本当かどうかはわかりません。


そのあとも調べたものの、情報は出てきませんでした。
四人で図書館の文献を調べていると、ふとエリザベスの姿が見えません・・。
彼女はあきらめて遊びに行ってしまったのかもしれない、と思ったとき、
エリザベスがあるメモを持って戻ってきました。

それはホロコーストを生き延びた人たちの連絡先のメモ。
「こうなったら当時の人に話を聞くしかないわ」
そして「イレーナって人が本当に2500人も救ったのなら、大人を信じられる気がする」
とエリザベス。

四人は生き延びた人たちに連絡を取りました。
熱意に打たれ、生存者たちはやがて重い口を開きます。
そしてついに、イレーナと言う女性のこともわかったのでした・・・・。


第二次世界大戦直前。ポーランド首都のワルシャワ。
イレーナ・センドラーは社会福祉局で働き、老人や孤児に食事や生活用品を援助していました。

その中には多くの貧しいユダヤ人も含まれていましたが、
1939年、ナチスドイツがポーランドに侵攻すると、ワルシャワにもゲットーが建てられ、ユダヤ人はそこに強制移住させられました。

そしてゲットーの中にはユダヤ人以外の立ち入りが禁止されました。

しかしイレーナは、社会福祉局のコネを使って、ゲットーに入る許可証を密かに手に入れ、
ゲットー内のドイツ人の目をかいくぐりながら、ゲットーにも援助を続けていました。

そしてやがて、ユダヤ人を救済するための地下組織、ジェゴダに加わります。


ところがナチスはユダヤ人の絶滅を決定。
ゲットーのユダヤ人たちは、毒ガス室へ次々に送り込まれていきました・・。

「子供たちならすぐに助けられるわ。
里親に預けて隠すことができるし、孤児院や教会にポーランドの孤児として預かってももらうこともできるわ」
そんなわけで、イレーナは子供たちの救出を行うことになったのです。


しかし子供と引き離されることになる、ユダヤ人の人たちから信用されるのは大変でした。
「見ず知らずのポーランド人を信用して子供を預けろっていうの!?」
イレーナはそんな人々を説得しました。
「そうね、私はユダヤ人じゃない。信用すべきじゃないわ。
でもこのままであなたの子供は生き延びることができると思う?
子供の命を救うには他に方法がないの。
・・・私は命がけでここに来ている。それは間違いないわ」

ユダヤ人の親たちは、泣きながらも子供をイレーナに預けました・・・。


イレーナは子供を鎮痛剤で眠らせると、スーツケースなどに入れて運び、教会や修道院、里親に託しました。
しかしそれで目的が達成されたとは思っていませんでした。


「パパやママのところにいつ帰れるの?」
そう子供たちに聞かれるたび、イレーナは
「戦争が終わったら会えるわ」と答えます。

そして一枚の紙を見せ、
「これはあなたの名前、あなたのお父さんとお母さんの名前、それから新しい名前と今住んでいる住所」


イレーナは、子供たちに新しい名前を与えて、本当の名前を言わないようにさせていましたが、
戦争が終わったら両親と再会できるように、記録を残していたのです。

ビンに入れられた、子供たちの命のリスト。

命のリストは仲間の家のリンゴの木の下に埋められました。
そしてそれはやがて、2500人分にもなっていたのでした・・・。


しかし第二次世界大戦終了まで後一年半ほどに迫った1943年10月。
イレーナの活動を知る仲間がドイツ軍に捕まり、拷問に耐え切れずイレーナのことを話してしまい、イレーナは捕まってしまいます。

仲間のことやユダヤ人の子供のことを聞かれても口を割らないイレーナには、殴る蹴るの暴行が加えられ、手足をへし折られました。
それでも話そうとしないイレーナはついに、数日後処刑されたのです・・・・。


命を懸けて子供たちを守りぬいたイレーナ。
しかしその功績は、ポーランドでもほとんど知られていませんでした。

ノーマン先生によると、
戦後ポーランドは共産主義体制になり、イレーナのような地下組織の英雄の話は、体制にとって危険とみなされ隠されてきたのだろうといいます。

しかし四人の女子高生によって真実はつきとめらられ、
彼女たちはイレーナの話を、演劇にまとめ、歴史コンテストで発表することに決めました。

タイトルは『ビンの中の命』


そのあと練習を重ね、クラスメートの前で発表してみたものの、演技がイマイチだったためかいい評価をもらえませんでした。
落ち込む彼女たち。
「このままじゃ歴史コンテストで恥かくだけよね」

するとメーガンは「いいじゃない」と言い出しました。
「私調べていくうちに思ったの。イレーナさんの思いを受け継いでいきたいって」

「そうか、そうだね・・」
「このままでいいんだ」

いつの間にか四人の中にイレーナの思いを受け継いでいきたいという気持ちが生まれていました・・・。


そして実は、イレーナもまたある人の思いを受け継いでいたのです。
イレーナの父スタニスワフは、故郷の村に死亡率の高い伝染病が大流行したとき、他の医者が村から逃げ出す中、貧しいユダヤ人たちをお金もとらず治療しました。
そのうち自分も伝染病に感染し、取り返しのつかないことに・・・。

しかし父はイレーナに言います。
「悲しむことはない。パパは後悔していないよ。
誰かが苦しい思いをしていたら知らない振りをしてはいけない。
何があっても助けようとする努力が大切なんだ」

大好きだった父が最後に遺した言葉・・。
イレーナは父の思いを受け継ぎ、命がけでユダヤ人の子供を助けたのでした。


そんな思いを受け継いだ四人は、
歴史コンテスト直前に町の教会で舞台を披露し、たくさんの拍手を贈られました。

そのあとの歴史コンテストでも、深い感動と共に受け入れられ、
2005年5月、全米歴史コンテストカンザス州大会で優勝したのです。

しかしメーガンたちはそのあとも、全米各地で上演を続けました。

大人なんて信じられないと言っていたエリザベスは、イキイキと
「これからももっとイレーナさんのことを知ってもらうように頑張らなくちゃ」と笑います。
私ね、本当は大人を信じたかったんだよね。
イレーナさんのことを調べられて本当によかった」


そのあと・・・
2001年5月、四人はポーランドを訪れ、
残されたゲットーの跡、イレーナが埋めた命のリストのリンゴの木を確認しました。

さらにそれだけではなく・・・
驚くことが待っていました。

実は生存していたイレーナ・センドラーと対面を果たしたのですΣ(゜Д゜;)


イレーナは実は生きていました。
イレーナの仲間から賄賂を受け取った看守は、イレーナの処刑の前日に彼女を逃がし、
それがばれないように処刑者リストに名前を書き込んでいたのでした・・・。

イレーナさんは91歳になっていました。
何も言わず、四人と抱き合うイレーナさん・・・。・゜・(ノД`)・゜・。


イレーナさんの功績は、四人の女子高生のワルシャワ訪問によって世界中に知れ渡るようになり、
イレーナさんは2003年、ポーランド白鷲勲章を贈られました。

さらに2007年、ノーベル平和賞の候補に選ばれました。

そして救出された子供たちの多くが彼女を知るようになり、
次々に再会を果たすことができたのです。


イレーナさんは言います。
「私は1人では絶対に何もできなかった。
だからヒロインなんかじゃありません。父の言葉を受け継いだだけなんです」

そんなイレーナさんにとって、心残りは、
命のリストで戦後子供たちを親元に帰そうとしたものの、叶わなかったことです。

なぜならほとんどの親たちは、イレーナさんに子供を託したあと、処刑されていたから・・・。

しかし助かった子供の1人、エルジュビエタさんは、
「イレーナさんはもっと何かできることはないかと思い悩み、できる限りのことをしてくれた」と語りました。


メーガンさんは、「世の中の悲しみを少しでも減らすため、イレーナさんの思いを絶やすことはできません。伝えていきたいと思っています」と言います。

2006年、カンザス州は3月10日(子供の記念日)をイレーナ・センドラー記念日と制定。


その後・・・
メーガンさんは『ビンの中の命』プロジェクトの役者兼スタッフとして力を尽くしています。
冒頭で語られた、8年間で250回の公演をやり、まだまだ続いています。


2007年、ワルシャワ・ゲットー記念碑広場に、リンゴの木が二本植えられました。
命のリストのビンにちなみ、ドイツの小学生が、平和への思いを込めて植樹したのです。

そして2008年、5月12日
イレーナ・センドラー逝去。98歳でした。

奇跡のヒロインは、この世を去りました。
こんな言葉を残して・・・。

「戦時中より今の方が、人間は悪くなったように思います。
文明は進みましたが、大量殺戮平気の開発は今も続いています。
それでも私は愛が勝つことを信じています。
愛よりも尊いものなどありませんから」




というお話でした・・・。
いいお話だなあ。・゜・(ノ∀`)・゜・。
ユダヤ人の人たちのために頑張ったイレーナさんも。
イレーナさんのことを調べて発表した四人の女子高生も。
イレーナさんのお父さんも・・。

人が人を助けたり、その思いを受け継いでいきたいと願ったりする気持ちって
すごく綺麗です。

今までの様々な歴史の中には、伝わらずに埋もれているものもいっぱいあるんでしょうね。
そういう素敵な話を時が経って、また誰かが拾い上げるのも奇跡だなあと感じました。
posted by 水沢桃子 at 21:10 | Comment(2) | TrackBack(0) | 「アンビリバボー」感想

2010年06月10日

「アンビリバボー」1200キロの愛の奇跡

今回は中国の純愛&奇跡のお話です。

中国南部、広東省茂名に住む、ポン・ズーシュンさんは、27歳のとき旅行代理店に転職しました。
この頃中国では自由に様々なところに旅行にいけるようになったため、いろいろなところを見てみたかったからです。

そして旅行会社に就職して二年目を迎えたある日のこと。
社長が添乗で行った湖南省の写真を、同僚たちと眺めていたとき、その中に写る一人の女性に一目惚れをしてしまったポンさん。

彼女は地元長江の観光案内を専門に行うガイドの、チョウ・ジューズーさん。19歳。

いてもたってもいられなくなったポンさんは、つてを頼りに彼女のことを調べます。
彼女が住む湖南省岳陽は茂名から1200キロ。列車で20時間かかる距離・・・。

そこでポンさんは計画を練りました。
自ら長江旅行の企画を考え、現地の案内人としてチョウさんを指名したのです。


そして運命のその日がやってきました。
ところが・・・案内人としてやってきたのは別の人(゜Д゜)

チョウさんは重要な得意先から指名が入り、来られなくなってしまったのです・・。


縁がなかったのか・・・。
ガッカリしていると、その夜、なんと彼女がホテルに訪ねてきました。

なぜここがわかったのか尋ねると、
彼女の乗った船が、偶然ポンさんと同じ埠頭に停泊し、
ポンさんの会社の紙袋を持ったお客さんが見えたのだといいます。

これはすごい偶然でした。
なぜなら、長江には何百隻もの船が無数に設けられた埠頭に停泊するため、
同じ埠頭に停泊する可能性はきわめて低かったからです・・・。

運命的な出会いを果たした二人は話をして、意気投合。
その後も電話で話すようになりました(^.^)
ポンさんの土産話は、旅行が好きでガイドになったチョウさんにとっては何よりの楽しみだったのです。


しかし、親からは「茂名の男と付き合うのはやめろ」と言われてしまいます。
「お前は一人娘だ。地元の男と結婚するんだ」
中国では、結婚後も子供を近くに置きたいと考えるのが一般的でした。
二人の恋はうまくいかない運命だったのでしょうか・・・。


そんなある日、チョウさんに電話が入ります。
なんと、ポンさんが事故に遭ったというのです。

同僚が運転する車に乗っていて事故に遭い、車外に飛ばされて頭を強打したポンさん。
病院に運ばれたものの意識はなく、こん睡状態に陥っていました・・・。

そばについていた両親は、「息子はずっとあなたの名前を呼んでいました」とチョウさんに告げます。
チョウさんはポンさんのそばに行き、「目を覚まして・・。また旅行の話を聞かせて・・」必死に呼びかけました。

そして翌朝・・・ポンさんの意識が戻りました。
「私よ・・・誰だかわかる?」呼びかけるチョウさん。
ポンさんは頭を強打していたため、記憶を失っている可能性もあったのです。

しかしポンさんは「チョウさん・・」彼女の名前を呼びます。
「ずっと君を想ってた・・・」

回復したポンさんは、後遺症もなく、
事故をきっかけに、二人の中は急速に近づいていきました・・・。


しかし・・・・。
「お見合いしろって言われてるの」
チョウさんはポンさんに困ったように打ち明けました。

チョウさんの両親は、遠くに住むポンさんの交際に反対していました。
どうしたら認めてもらえるのか・・。
仕事や家を捨てて広東を離れることはできないポンさん。

それでも自分の真剣な気持ちを伝えるために、給料の二か月分で買った腕時計をチョウさんに贈ることにしました。
そこで彼女の家に電話をかけたところ・・・信じられないことを聞きます。


なんとチョウさんが事故に遭って重体だと言うのです。
ポンさんが事故に遭ったと思ったら、次はチョウさんまで・・・・。

駆けつけたポンさんの目の前で、呼吸器をつけて横たわるチョウさん。
チョウさんはトラックにはねられ、非常に危険な状態でした。
医師は「おそらく意識が戻ることはないでしょう」と告げます。

ポンさんは彼女の手をにぎり、「目を覚ましてくれ・・」と必死に呼びかけました。
そばについていた彼女の父親からは、「帰ってくれ。君は関係のない人間だ」と怒鳴られましたが、
それでも「お願いです。チョウさんのそばにいさせてください」と必死で頼み、そばについていました。

しかしこん睡状態が何日も続き、5リットルもの輸血がされても、チョウさんは目覚めませんでした。

次第に病室にはあきらめのムードが漂い始めます・・。
こん睡状態7日目。
一週間の間に、医師からは命の危険が3回も告げられていました。

父親は力をなくし、「もういい・・・もういいんだ」とポンさんに言います。
しかしポンさんはあきらめませんでした。

「僕はあきらめたくありません。
一ヶ月前・・・僕は事故に遭ってこん睡状態だったんです。
それを助けてくれたのは彼女でした。
だから今度は僕が彼女を助けたいんです」
祈るように彼女の手を握りしめるポンさん・・・。

そのとき、奇跡が起こりましたヽ(´▽`)/

ゆっくりと彼女が目を開けたのです・・・・。


ポンさんはチョウさんに、贈るつもりだった腕時計を見せました。
「これプレゼント。大丈夫、今度は溶けてないから・・」
小さくうなずくチョウさん。

初対面のとき、彼女にプレゼントしようと思って、ポンさんは高級なチョコレートを持ってきていました。
しかし渡してみると、気温のために溶けてしまっていたのです・・。


しかし目覚めたチョウさんには試練が待っていました。
股関節部分が粉砕骨折しており、傷口が炎症を起こしていたため手術ができず、脚におもりをつけて引っ張るけん引治療が施されていました。
それは想像を絶する痛みでした・・・。

そんなチョウさんにとって、唯一の慰めはポンさんからの手紙でした。
色々な場所の思い出話に励まされるチョウさん。
そしてポンさんは、週末になると20時間かけてお見舞いに来てくれたのです。

少しずつ回復していくチョウさん。
しかし・・。

「私、夢があるの。あなたの企画した旅行でガイドをするの」
「簡単じゃないか」
チョウさんはうつむきます。
「ダメなの・・・。もう普通に歩くことはできないって・・。
おかしいでしょ。ガイドがお客さんに迷惑をかけちゃ・・・」

それを聞いたポンさんは落ち込みます。
「結局、僕は君に何もしてあげられなかった。僕は君に助けてもらったのに」
チョウさんはそれを否定しました。
「そんなことない。あなたがいたから、今私は生きてる。だからそんな顔しないで・・」

ポンさんはチョウさんに言います。
「・・僕が何でもするから、だからガイドの夢は捨てないで」
「・・・ありがとう・・・」


その後も、ポンさんはチョウさんを支えました。
何度も病院に足を運び、病院に行けないときは手紙や電話でチョウさんを励まし続けたのです。

「離れているけど、心で君を支えてあげる」
「きっと完全に治り、歩けるようになるから・・・」


そして入院して二ヶ月が過ぎた頃、信じられないことが起こりました。
チョウさんの足が、元通り綺麗にくっつき始めているというのです。

「こんなケースは初めてですよ」と医師もビックリ。
まさに奇跡でした・・・!


その後退院したチョウさん。
しかし長期にわたり足が固定されていたため、一度足を曲げるたびに耐え難い苦痛を伴いました。
そのリハビリの間も、ポンさんは彼女の元に通い続け、励まし続けました。

そんな姿をずっと見ていたチョウさんの両親も・・・
ついに二人の交際を認めてくれました(;´▽`)=3

そして二人は結婚・・・。


現在・・。
二人はとても元気で、チョウさんも全く後遺症がない様子。
彼女の足は、以前と変わらないほどに回復していました。
二人で一緒に頑張ったおかげです。

ポンさんは
「お互いを愛していたから、困難でも乗り越えられたんです。
どんな困難があっても、彼女のためなら何でもするつもりです」

そしてチョウさんは
「歩いてきた道は平坦ではなかったけど、だからこそ一緒になれたんだと思います。
彼と出会えて本当に幸せです」

現在二人は、チョウさんのふるさと、湖南省岳陽にある旅行会社で一緒に働いています。

そして・・・そこでついに二人は、夢を叶えました。
ポンさんが企画したが岳陽楼のツアーのガイドをするチョウさん・・・・。


そんな二人の新たなる夢は、子供を作ることだそうです。
とても幸せそうな二人の笑顔でした・・・・(*´▽`*)




素敵なお話でした〜〜〜〜ヽ(´▽`゜)/
何事もなかったら、強い反対にあって別れてしまったかもしれない二人。
そんな二人に・・・与えられた試練はすごく過酷なものだったけど、
それでも二人だったから乗り越えられたんですね。

困難な中でこそ、愛の深さってわかると言いますが、まさにそんな感じ。
どうしてもお互いが必要だったからこそ、奇跡が起きたのかもしれません・・。
posted by 水沢桃子 at 17:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 「アンビリバボー」感想

2010年07月07日

「アンビリバボー」Change〜私は変われる〜

先生と生徒の感動のアンビリバボーです。

アメリカ、カリフォルニア州ニューボードビーチ出身のエリン・ブルーエルは、
故郷とまったく違う環境のロングビーチ、ウィルソン高校の教師になりました。

犯罪多発地帯のロングビーチは、町中に銃やドラッグが蔓延、ギャングも多くいて、
生徒は黒人や中南米の貧困層が多く、人種ごとに分かれてけんかを繰り返していました。

学力ごとにクラスが分かれており、問題児が集まる一番下のクラスがエリンの担当でした。
教室でケンカがたびたび起こり、そのたびに警備員が呼ばれるほど。
そんなクラスだったから、新米教師に押し付けられたのです。

生徒の1人シャーロッドは、当時のエリンについて
「エリンを見るだけで腹が立った。さぞ何不自由ない人生を歩んでるんだろうって・・・」と語りました。


そんなある日のこと。
授業中一枚の紙が生徒達の間にまわされ、みんなそれを見てクスクス笑っています。
しかしそれを見た黒人のシャーロッドはうつむきました。

エリンがその紙を取り上げると、それはシャーロッドの特徴を誇張した似顔絵でした。

「こんなことして楽しい!?」
エリンが怒鳴ると、
「楽しいね。黒人はみんなゴリラみてえで面白いからな」と返してくる生徒。

エリンは彼らを静かにさせると、話し始めます。

「これと同じものを歴史の教科書で見ました。
“彼らは人間として劣っているから殺してもいい”・・そうやって自分達と違う人種を大勢殺した。
ユダヤ人大虐殺。あなた達のしたことはそれと同じよ」

ところがその話に対して、
「すげーじゃん、どこのギャングだよ」
思いもかけない反応が返ってきて、エリンはとまどいます。

もしかして、と思い、生徒達に「ユダヤ人大虐殺を知ってる?」と尋ねると、
なんと生徒は誰一人そのことを知りませんでした。

「歴史なんか関係ないね」
「それより銃の扱い方でも習ったほうがよっぽどましだぜ」

そんな生徒達に、エリンが「・・じゃあ、この中で、銃で狙われたことがある人?」と尋ねてみると、
生徒全員が手をあげたのです。


エリンはそのときのことを、
「私は何も知らなかったんです。彼らの状況を。
中には銃で撃たれた傷を自慢げに見せだす子もいたんです・・・」


エリンは衝撃を受けながら、このままではいけないと考えます。
まずは人種を理由に憎しみ合うことがいかに愚かなことかを教えたい。

そこで、『アンネの日記』を生徒達に読ませようと考えました。
『アンネの日記』はユダヤ人の少女、アンネ・フランクが、ナチスに迫害されながら隠れ家でつづった日記で、彼女の死後父親が出版したものです。


「きっと生徒は変われるはずなんです。何とか新しい教材に加えていただけないでしょうか」
「あの子達に知的興味を持たせるなんて無理です」
「やってみなければわかりません。私は彼らの意識を変えたいんです」
「予算のムダです」
エリンの願い出はかないませんでした。

そこでエリンが取った行動は・・・・

下着売場やホテルでアルバイトをして、そのお金で『アンネの日記』を生徒の人数分購入したのでした。


エリンは生徒達にノートを配りました。
「思ったこと、詩でも絵でも何でもいいから毎日書いて欲しい」


「彼らを知りたかったんです。何に傷ついているのか、何が嫌いで何が好きなのか。
口では言えないこともあると思ったんです」

しかし帰ってきたノートには、いたずら書きや悪口ばかりで、生徒達の気持ちは全く伝わってきませんでした・・・。


それでもエリンはめげませんでした。
映画からも学ばせようと、課外授業として『シンドラーのリスト』(たくさんのユダヤ人を助けた人の話)を見せに、エリンの地元の治安のいい映画館へ生徒達を連れて行きました。

しかし町の人たちは彼らを見て、眉をひそめ、物品を盗られないかとそそくさと立ち去っていきます。
文句を言いかけたエリンに、「いいんだよ、いつものことさ」あきらめ顔の生徒達。


この現状を何とかしなければならないと考えるエリンは、
知り合いの新聞記者の取材を受け、そのことを記事にしてもらいました。
「この現状が変わらなければ子供達は変われない」


ところがその記事が思わぬ波紋を呼び起こします。

車に“黒人びいきめ!そんなに猿が好きか”と汚い落書きをされているのを見て、
生徒達は顔を曇らせます。
もちろん彼らがやったわけではありません。

そしてエリンは学校側に注意を受けます。
記事を見た心無い人たちからの文句がエリン宛にたくさん届いていました。


しかしこの出来事で、生徒達の中にはある変化が生まれました。
日記を提出する数、そして内容が増えたのです。

日記の内容は想像を絶するものでした。

オスカル『今日母さんと二人で家を立ち退くことになった。住む家もないのに学校なんか行ってどうなる』

ダリアス『二日前親友が敵対するギャングに殺された。だが友を失うのはこれが初めてではない。最後でもないだろう』

ティフォニー『ドラッグと酒で訳がわからなくなった父にベルトで叩かれた傷がひりひり痛みます。
母が父と早く別れてこの戦争が終わるのを待つしかありません』

マリア『どうせ私もそのうち妊娠して結婚するだけ。ママのように姉のように・・・。
親戚で大学に行った者なんかいない』

シャーロッド『オレ達が金を稼ぐにはまともな仕事はありゃしない。
どうせ麻薬の売人くらいしかありえない。みんなそうさ』

パコ『卒業なんか考えたこともねえ。18まで生きられるかどうかもわからねえのに』


生徒達の厳しい現実に、エリンの心は激しく痛みました・・。

「彼らの日記には涙のあとがありました。でも日記に書くことで少しでも状況を変えようと思って欲しいと考えたのです」


生徒達は互いの日記を読むことにより、互いの心の傷を知り、人種間の争いは減っていきました。

しかし、将来への不安から、喫煙や酒で謹慎処分を受けるケースも少なくなりません。
1人で多くの生徒を変えることの難しさを、エリンは痛感しました。


そんな中、授業で『アンネの日記』を読ませた子供達の反応は・・・。

読み終わったある生徒が、「アンネは死ぬのか?何でこんな本を読ませたんですか。悲しすぎるよ」
と言ったところ、それに対し他の生徒が、
アンネはつらい状況下でも日記を残したことがすげえんじゃねえか。こうして世界中の人に読まれてるだろ」
「作家を目指してたアンネの日記が本になったのよ。死んだけど夢を叶えたのよ

生徒達の気持ちが、確かに以前とは変わっている。
・・・そして、生徒達の会話を聞いていたエリンに、あることが閃きました。

どこかに電話をかけるエリン。


生徒達が二年生になったある日、特別講師がやってきました。
それは、ミープ・ヒース。
『アンネの日記』にも登場する、アンネたちをかくまったオランダ人の女性です。
当時のオランダでは、ユダヤ人をかくまうことはナチスに反逆することであり、死罪になる危険なことでした。

エリンは彼女の渡米を知り、生徒達に会って欲しいとかけあったのでした。


ミープの話を聞く生徒達。
「あなたは僕の英雄です」というダリアスに、ミープは応えました。

「私は当然のことをしただけ。
どんな暗い世界にも灯りはともせるのよ。
痛みを知るあなたたちだからこそ、きっと多くの人に希望を与えられるはずです。
あなた達こそ、英雄なのです」


ダリアスはこのときのことを
「その言葉にどれだけ自信が湧いてきたか。
俺はこの日のことを一生忘れない」


そして・・・。
数週間後、クラスで、乾杯をしようとサイダーを用意するエリン。

みんなはきっと変われます。家族がどうであれ、今までがどうであれ、全てが変わるんです」

そしてみんなを見つめ、
「自分がどうなりたいか、今ここで誓ってほしいの」

エリンの提案のとおりに、生徒達は夢を語り始めました。

ダリアス「音楽を勉強してミュージシャンになる」
ティフォニー「家族で初めて大学に行く」
シャーロッド「俺は先生になる」
マリア「私はひとを助けたい」
パコ「18歳まで生きる。新しい俺になるんだ」


「感動する瞬間でした。このときから生徒達みんながひとつになったんです」


そして翌日から、目標に向かって勉強を始めた生徒達。
授業はわかりやすいように、ラップやゲームを取り入れ、
家の事情で勉強ができない生徒には、ギリギリまで学校で勉強をさせたあと、
エリンが車で家まで送りました。

「教科書にアンダーラインを引くことだけでも、彼らには楽しみになったんです。
成績も上がっていきました」


さらに、彼らが書いた日記の中からそれぞれが何篇か選び、一冊の本にまとめました。
後にその本は、教育長官の手に渡ることになります。


そうした若者達の変化に、マスコミ各社の取材が殺到。

1998年、アンネ・フランク財団から表彰されました。

そんな中、生徒達は真面目に、夢を叶えるために勉強を続けました。


そして・・・エリンのクラスから大学合格者が誕生。

「みんな、自分のことのように喜んでくれた。家がなくても、僕にはこの教室がある」

実はそれまでに生徒達は、紛争で苦しむ子供達への募金を集めるための、バスケットボール大会を主催していました。
そんな功績が認められ、奨学金がもらえたのです。

パニー「両親が私のことを誇りに思うと話していたんです。
これまでそんな言葉を聞いたことはなかった」

涙を流す生徒達・・・。

かつて親友をギャングに殺されたダリアスは、
「先生がしてくれたことは大きい。先生に会わなかったら今頃は牢屋にいたかもしれない。
先生に会うまで俺の人生はなかったんだ」


それまで卒業などできなかったこのクラスの、9割が大学に合格。

妊娠して結婚する未来しか見えないと言っていたマリアは、
カリフォルニアの州立大学に合格。

「私の出身や成績を見てあきらめるのではなく、エリンはずっと、私が違う人間になれると信じてくれたんです。その言葉は本当でした」

麻薬の売人にしかなれないといっていたシャーロッドも進学。
乾杯の誓いどおりに教師になりました。

「エリンは俺の可能性にかけてくれた。そんな先生は彼女が初めてだったよ」


エリンは微笑んで、語りました。
「私は正しいと思うことをしただけ。
でも自らの力でチェンジを成し遂げた私の生徒たちのことは、本当にほこりに思っています」


彼らの日記をつづった本は、出版され70万部のベストセラーになりました。
売り上げは全て、金銭的に苦しい生徒達への奨学金や、教材の購入にあてられ、
全国から感謝の手紙が絶えません。

エリンはその後カリフォルニア州立大学の講師となり、
2000年、資金不足の学校や生徒を支援する財団を設立。

「私は生まれ変わろうとする子供達を支援する仕事をしています。
ウィルソン高校の生徒がそうだったように、誰もが人生を劇的に変えることができるし、
その変化を助けることも、誰にでもできるのです

エリンは今も生徒達のために頑張り続けています・・・・。




という感じでした。・゜・(ノ∀`)・゜・。
素晴らしい先生です!!!
新米教師だったのに、決してあきらめることなく努力し続けて、その気持ちが生徒達に伝わって生徒達を変えていく・・。
こういう先生に出会いたいですね。

そしてアンネ・フランクたちを支え続けたミープ・ヒースの言葉も、素敵でした。
「あなた達こそ、英雄なのです」
・・・本当に、生徒達は努力して英雄になりました。
特に先生になったシャーロッドは・・・エリンみたいな先生になりたいと思ったのかもしれません。
彼もまた、誰かに希望を与える先生になれるんじゃないかな・・と思います。

素晴らしい話でした・・・ヽ(´▽`゜)/
posted by 水沢桃子 at 17:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 「アンビリバボー」感想
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